悪党は、幕府に従わなかったならず者なの?
悪党とは、鎌倉幕府の支配体制に反抗した者のことをいいます。
土着の武士のほか、中には落ちぶれた御家人が悪党となったケースもありました。
悪党は地元の農民たちを率いて荘園領主の年貢を奪ったり、荘園の土地を犯したりしました。
まさにワル!といえる活動ですね。
このようなことをしていては、さぞ幕府から疎まれ、重罪とされていたのだろう…と思いきや、
鎌倉時代、実際はこの悪党はけっこう放置されていたそうです。
悪党は悪さをし、他の領地に逃げ込んで息を潜め、
機会をうかがってはまた年貢を奪いに行くというようなことをしていました。
御成敗式目では、悪党を匿うことは罪であるとされていましたが、
幕府は悪党を捕まえることには消極的だったのです。
しかし、1257年頃、飢饉が起こると悪党の活動がさらに活発になったため、
幕府はようやく鎮圧に乗り出したのでした。
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悪党と非御家人の違いって?
悪党も非御家人も幕府の支配体制からはずれた者、ということには変わりありません。
では、悪党と非御家人には一体どのような違いがあったのでしょうか?
まず、悪党は土着の豪族や名主、
また落ちぶれた御家人や非御家人といった武士たちによって構成されていました。
非御家人は、幕府と主従関係を結んでいない武士のことをいいます。
非御家人は、幕府からの保護を受けることがないかわり、幕府への義務もないとされていました。
そのため、一般の庶民と同じように扱われており、
非御家人の中には悪党となって活動する者もいたのです。
アウトローな集団、悪党はとても個性的だった
鎌倉時代、幕府に従わなかった悪党は、とても目立つ存在でした。
幕府に従う御家人が直垂などをピシッと着こなしていたのに対し、
悪党は派手な色の女物の着物を着たり、傘で顔を隠したりするなど、とても異様な格好をしていました。
さらに、自作のおかしな武器を携えていることもありました。
そのため、当時は「異類異形」と称されていたのです。
ちなみに、悪党たちが描かれた絵を見てみると、
どことなくニヒルな表情をしているように感じませんか?
鎌倉幕府の執権や御家人たちのキリッとした表情の肖像画とは、一線を画しているようです。
アウトローな集団だったということが、服装や表情からも察することができます。
しかし、実力主義の鎌倉時代、丸腰の貴族たちは自分の命や財産を守るために、
このような悪党を警備として雇うこともあったのです。
悪党出身の有名人
河内の楠木正成をはじめとする楠木一族、播磨赤松一族、そして伯耆国の名和一族が有名です。
楠木一族や、赤松一族は、もしかして御家人の出自だったのではないか、という説もありますが、
名和一族の名和長年に関しては、伯耆国に流罪となって土着した武士を祖先に持ち、
海運業で財を成したれっきとした悪党であるとされています。
つまり、幕府の力を借りずに財産を蓄えることができていたのです。
さらに、長年自身は弓の名手としてもその名を知られていました。
鎌倉幕府の倒幕で大活躍した楠木正成、悪党出身説があるにもかかわらず教養が高かった赤松則村、
そして武力に優れ広い心を持っていると称された名和長年…
彼らは個性豊かで鎌倉時代末期に大活躍したのでした。
楠木正成、名和長年は後に足利氏に敗れ、その生涯を閉じることになりますが、
彼らが忠誠を誓った後醍醐天皇が良い政治を行っていれば、
歴史はもう少し変わっていたのではないか、と考えられます。
悪党は、名前の通り本当の悪人、というわけではなく、
武士道を真っ向から貫くような高い忠誠心を持っていた者も数多くいたのでした。
悪党は今でも大河ドラマや歴史小説に取り上げられることが多く、
彼らの生き方は時代を越えて人々を魅了しているのかもしれません。
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