武田信玄
武田信玄は、大河ドラマの主人公としてもよく取り上げられる、現在でも人気の戦国武将です。また、江戸時代には、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いが歌舞伎の題材として、絶大な人気を誇りました。いつの時代も人々の心を惹きつけてやまない信玄ですが、いったい彼はどのような功績を残したのでしょうか?
この記事では、そんな彼の功績をひとつひとつ紹介していきます。
河川の氾濫をおさめ治水に成功した
甲州の中心である甲府盆地は、複数の川が合流しているため、昔から河川の氾濫による水田の被害に悩まされ続けてきました。そのような甲斐を治めていた信玄は信玄堤という治水灌漑工法によって河川の氾濫をおさめ、治水に成功したのです。
信玄堤によって米の生産も増えて、甲斐の国はますます豊かになっていきました。信玄が亡くなってだいぶ時が流れた大正時代、大正天皇は武田信玄の治水などの貢献を認め、従三位を贈ることを決定しました。このとき、信玄の子孫が従三位を授与されたそうです。
甲斐国の領民のために尽くした
信虎、信玄、勝頼の三代に渡って住まれた躑躅ヶ崎館は、武田氏ゆかりの地として知られています。さて、この躑躅ヶ崎館の跡地では、現在は武田神社として整備され、武田信玄が神様として祀られています。このことから、信玄が領民に慕われていたということが分かります。
実際、今でも山梨県のお年寄りでは、信玄のことを尊敬しているという人も多いです。その理由としては、戦上手で部下を大切にしていたというだけでなく、信玄堤による治水工事や農業・商業の振興など、領国の生活の安定のために力を尽くしたからということが挙げられます。
■中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説■
風林火山ー孫子の兵法を実践したー
孫武
戦国時代、武将たちは戦で勝利するために兵法を学んでいました。武田信玄にとって、兵法を生かした戦をするようになったのは、ライバルである上杉謙信の存在は大きいでしょう。上杉謙信も、仏教における武神である毘沙門天の生まれ変わりだと称されるほどの戦上手でした。
武士が世を治める時代であった江戸時代において、川中島の戦いが歌舞伎の題材として人気を集めた理由としては、信玄と謙信の両者が非常に戦上手であったことも挙げられるのではないでしょうか?信玄は、謙信と対峙した数度にわたる川中島の戦いの中で、孫子の兵法を自分の実践していったようです。
武田軍が旗指物に記したとされる「風林火山」は、「疾如風」「徐如林」「侵掠如火」「不動如山」という言葉の略です。これは孫子の中にある軍の進退に関する記述であり、ここから取った言葉を旗指物に使っていたということは、信玄が孫子の兵法を、戦のときいかに強く意識していたかがうかがえます。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
「風林火山」は武田信玄を代表する言葉のひとつであり、大河ドラマや歴史小説などにもよく登場しますが、実は孫子の兵法からきていたのですね。信玄の功績をひとつひとつ見ていくと、彼が部下だけでなく、領民からも大変愛されていたことがうかがえます。
また、信玄は家督争いの際に実父を追放していますが、決しておざなりにすることはせず、毎年多額のお金を渡していたそうです。戦国時代には兄弟同士での殺し合いもよく行われていましたが、信玄と弟の仲はとても良かったようです。戦上手でありながら、領民のために尽くし、家族想いであった…というところから、信玄が相当な人格者であったことが伺えます。
ひとりの武将として、あるいは男として、とても魅力的な人柄であったーこれが、武田信玄の1番の功績であり、いつの時代も人々の心を惹きつけてやまない理由なのではないでしょうか?
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