みなさんは、山梨県甲斐市竜王にある信玄堤公園に行ったことはありますか?この公園は、信玄堤沿いにあります。信玄が作ってから400年以上の時が流れているにもかかわらず、今なお雄々しい姿をとどめている信玄堤。当時植えられたケヤキやエノキの大木が今でも残っているその景色は訪れる人々の心に特別な感動をもたらしてくれるのです。
20年かけて作られた信玄堤
信玄は治水工事においても手腕を発揮しました。戦国大名にとって、自分の領土を拡大し、お米の収穫量を上げることは、自国を豊かにするためにとても重要なことだったのです。しかし、甲斐は高い山に覆われ、水田地帯が少ない地域でした。
武田信玄が実権を握った翌年である1542年、甲斐の釜無川が大洪水となりました。この洪水の被害は甚大であり、草木はすべて枯れてしまったそうです。このとき、信玄はすぐに釜無川の治水に取り組みました。
しかし、現在とは違い、川の氾濫を防ぐ方法や、堤防を作る技術はまだ未熟であり、信玄堤が完成したのは1560年頃でした。ちなみに、今では「信玄堤」という名前が一般的に知られていますが、この呼び方は、江戸時代後期から使われるようになったのです。信玄の時代には、信玄堤ではなく、「竜王の川除」と呼ばれていたのだとか。「竜王の川除」…なんだか、カッコイイ名前ですね。
水の勢いを削ぐ
信玄の治水事業は、①荒れる川の流れに逆らない、②石積みなどで流れをうまくコントロールする、③水の勢いをそいで洪水を防ぐ、ということが特徴です。また、釜無川ではひとつの大きな堤防を造るのではなく、小さな堤防を重なり合うように並べています。
理由は小さな堤防を積み重ねる事で、あまりにも大雨のときは水があふれ出させて、洪水の勢いを削いでいるのです。これは、大きな一枚堤防で無理にせき止めようとせず、小さな堤防に何度もブチ当て水を少しずつ溢れさせて「洪水の被害を最小限にしよう」という意図があります。「信玄堤」は、完成後400年以上たった現在でも治水機能を果たしているのです。
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領民もうまく巻き込んだ制度で洪水の被害を未然に防ぐ
信玄堤のような治水施設は、長い時間をかけて作っても、完成したら「はい、終わり」というわけにはいきません。むしろ、そこからがスタートで、洪水の被害を防いでいかなければなりません。いくら甲斐を治める信玄が治水施設を作っても、領民の関心がなければ維持することはできないのです。
そこで、信玄は領民に管理を命じ、代わりに税を免除しました。また浅間神社から信玄堤のある三社神社まで神輿が練り歩く水防祭りを盛大に行いました。この水防祭りによって、領民の洪水への関心を薄れさせないようにしていたのです。「自然災害は、忘れた頃にやってくる」といいますが、信玄は、人々が洪水による災害を忘れることがないように、あの手この手を使ったのです。
信玄のアイディアは江戸時代に役立った!
信玄が亡くなった後、天下人の徳川家康は釜無川の信玄堤を視察しています。そして、信玄が決めたように、領民に管理を命じて、免税などの特権も同様に認めました。つまり、家康が信玄のやり方を見習ったのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
信玄が確立した治水事業は、江戸時代において急流の川における治水法の主流となり、盛んに行われた新田開発の助けとなりました。さて、江戸幕府を開いた家康ですが、三方原の戦いでは信玄に敗北しています。その信玄の治水技術や管理ノウハウを見習った家康は、いったいどのような気持ちだったのでしょう?今となっては分かりませんが、心のどこかに、信玄に対しては頭が上がらない、という気持ちがあったのかもしれませんね。
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