武田信玄はどんな人柄だったのか?

2018年12月28日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

武田信玄

 

現在でも人気を集める戦国武将である武田信玄(たけだしんげん)は、いったいどのような人柄だったのでしょうか?

清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む武田一族に生まれ、父である武田信虎も優れた戦国武将であった信玄は、生まれながらのサラブレッドでした。

現在に残されている信玄の肖像画を見るととても豪快なイメージがありますが、実際の信玄は慎重で、用心深い性格であったようです。

この記事では、信玄の人柄にまつわる話を中心に、ちょっと面白いエピソードも紹介します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



実は信玄は細かく気を使うタイプだった

若い頃の武田信玄

 

信玄は父の信虎とはうまくやっていくことができず、家督問題などもあり、信虎を姉の嫁ぎ先である駿河に追放しました。

しかし、信虎が身を寄せていた今川家には隠居料という名の生活費を送り続けていました。

今の金額でいうと、毎年1億円ほどの金額を送り続けたとも言われています。

戦国武将の中には、実父を殺したケースもありますが、信玄の場合はこのような気を使うような選択を選びました。

しかし、信玄が血の繋がった家族を殺めることが一切なかったかというとそうではありません。

信玄は、嫡男であった武田義信を謀反の疑いがあるとして、自害に追い込んでいます。

 

 

 

合戦では、勝つことよりも負けないことを大切にした

徳川家康をボッコボッコにする武田信玄

 

信玄公の名言で、「(およ)そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。

五分は(はげ)みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。」というものがあります。

これは、「合戦で勝利をすると油断して、次には負けてしまうものだ、ギリギリ勝つことができれば、次も頑張ろうと思える」という意味で、

戦いにおいては調子に乗らず、常に慎重に、という信玄の想いが込められています。

信玄は、生涯で72回戦ったうち負け戦は3度しかなく、49回の勝利をあげ、残りの20回は引き分けとなっています。

 

 

「実力重視」の武田軍!信玄の考えは、当時は斬新だった

「実力重視」の武田軍!信玄の考えは、当時は斬新だった

 

信玄率いる武田軍は、有能な人物はどんどん出世することができる、実力主義でした。

信玄は、農民だった高坂昌信(こうさかまさのぶ)や、素性のはっきりしない山本勘助(やまもとかんすけ)を家臣に加えています。

家柄にとらわれることなく、実力主義で重用するのは、当時としては比較的珍しかったようです。

 

 

信玄のトイレが広い理由は…

武田信玄とうんち

 

躑躅ヶ崎館の信玄専用のトイレは、とても広かったようです。

どれくらい広かったのかというと…甲陽軍鑑には、「御用心のために京間六畳敷きの閑所(トイレ)をつくった」と描かれており、

かなり広かったことが伺えます。

なぜ信玄のトイレが広かったのかというと、狭いトイレでは壁から槍で突かれた場合、抵抗することもできず、簡単に命を落としてしまうと

警戒したからです。

躑躅ヶ崎館の信玄専用トイレは広かったため、万一用を足している最中に襲われても、刀を振って応戦できると、信玄は考えていたようです。

それにしても、信玄は用を足すときには、毎回刀をトイレに持ち込んでいたのでしょうか…?

 

戦国時代ライター星野まなかの独り言

戦国時代ライター星野まなかの独り言

 

信玄の「調子に乗らず、慎重に」という考え方は、いまの世の中で、プロフェッショナルとして仕事をしている人々と重なる部分があると感じました。

ある外科医の先生が、「常に自分は二流と思え」とおっしゃっていましたが、もしかしたら信玄の考え方と重なる部分があるのでは…と思いました。

信玄の人柄、そして戦国武将としてプロフェッショナルともいえるものの考え方が、彼の偉業を成し遂げさせたのではないでしょうか?

それにしても、信玄のトイレのエピソードは、本人は真面目に考えていたのでしょうが、後の世の人間からすると、

思わずクスッと笑みが溢れてしまいそうです。

 

関連記事:信玄の敵は謙信ではなかった?武田家を揺るがす最強の敵出現

関連記事:武田信玄の駿河侵攻戦はどうやって攻略をしたの?

 

新選組

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
星野まなか

星野まなか

歴史上の偉人から人生の教訓を学んでいます 好きな歴史人物:諸葛亮孔明、織田信長 何か一言:文献を読むことが好きです。 「はじさん」に関わらせていただけることをとても嬉しく思います。

-戦国時代 (日本)
-