現在でも人気を集める戦国武将である武田信玄は、いったいどのような人柄だったのでしょうか?
清和源氏の流れを汲む武田一族に生まれ、父である武田信虎も優れた戦国武将であった信玄は、生まれながらのサラブレッドでした。
現在に残されている信玄の肖像画を見るととても豪快なイメージがありますが、実際の信玄は慎重で、用心深い性格であったようです。
この記事では、信玄の人柄にまつわる話を中心に、ちょっと面白いエピソードも紹介します。
この記事の目次
実は信玄は細かく気を使うタイプだった
信玄は父の信虎とはうまくやっていくことができず、家督問題などもあり、信虎を姉の嫁ぎ先である駿河に追放しました。
しかし、信虎が身を寄せていた今川家には隠居料という名の生活費を送り続けていました。
今の金額でいうと、毎年1億円ほどの金額を送り続けたとも言われています。
戦国武将の中には、実父を殺したケースもありますが、信玄の場合はこのような気を使うような選択を選びました。
しかし、信玄が血の繋がった家族を殺めることが一切なかったかというとそうではありません。
信玄は、嫡男であった武田義信を謀反の疑いがあるとして、自害に追い込んでいます。
合戦では、勝つことよりも負けないことを大切にした
信玄公の名言で、「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。」というものがあります。
これは、「合戦で勝利をすると油断して、次には負けてしまうものだ、ギリギリ勝つことができれば、次も頑張ろうと思える」という意味で、
戦いにおいては調子に乗らず、常に慎重に、という信玄の想いが込められています。
信玄は、生涯で72回戦ったうち負け戦は3度しかなく、49回の勝利をあげ、残りの20回は引き分けとなっています。
「実力重視」の武田軍!信玄の考えは、当時は斬新だった
信玄率いる武田軍は、有能な人物はどんどん出世することができる、実力主義でした。
信玄は、農民だった高坂昌信や、素性のはっきりしない山本勘助を家臣に加えています。
家柄にとらわれることなく、実力主義で重用するのは、当時としては比較的珍しかったようです。
信玄のトイレが広い理由は…
躑躅ヶ崎館の信玄専用のトイレは、とても広かったようです。
どれくらい広かったのかというと…甲陽軍鑑には、「御用心のために京間六畳敷きの閑所(トイレ)をつくった」と描かれており、
かなり広かったことが伺えます。
なぜ信玄のトイレが広かったのかというと、狭いトイレでは壁から槍で突かれた場合、抵抗することもできず、簡単に命を落としてしまうと
警戒したからです。
躑躅ヶ崎館の信玄専用トイレは広かったため、万一用を足している最中に襲われても、刀を振って応戦できると、信玄は考えていたようです。
それにしても、信玄は用を足すときには、毎回刀をトイレに持ち込んでいたのでしょうか…?
戦国時代ライター星野まなかの独り言
信玄の「調子に乗らず、慎重に」という考え方は、いまの世の中で、プロフェッショナルとして仕事をしている人々と重なる部分があると感じました。
ある外科医の先生が、「常に自分は二流と思え」とおっしゃっていましたが、もしかしたら信玄の考え方と重なる部分があるのでは…と思いました。
信玄の人柄、そして戦国武将としてプロフェッショナルともいえるものの考え方が、彼の偉業を成し遂げさせたのではないでしょうか?
それにしても、信玄のトイレのエピソードは、本人は真面目に考えていたのでしょうが、後の世の人間からすると、
思わずクスッと笑みが溢れてしまいそうです。
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