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中岡慎太郎の陸援隊とはどんな組織?

2019年1月23日


 

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中岡慎太郎

 

今回は中岡慎太郎(なかおかしんたろう)陸援隊(りくえんたい)について取り上げます。この記事では中岡慎太郎について取り上げるとともに、中岡慎太郎が陸援隊を結成してから中岡暗殺後に解散に至るまでの経緯について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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中岡慎太郎とは?

横井小楠

佐久間象山

 

中岡慎太郎は1833年に土佐藩の大庄屋・中岡小傳次(なかおかこでんじ)と後妻ウシの長男として生まれました。1861年に武市瑞山(たけちずいさん)が結成した土佐勤皇党に加盟して、土佐藩の尊王攘夷派として活動を始めます。土佐藩内で尊王攘夷派の弾圧が始まると、長州藩に亡命しました。亡命先の長州藩で過激な尊皇攘夷運動に加わります。

 

中岡は尊皇攘夷運動に加わっていましたが、1862年に佐久間象山(さくましょうざん)を訪れます。佐久間象山から西洋の技術や知識を学んだことや亀山社中で西洋の技術にふれると、中岡は尊皇攘夷から西洋かぶれになったと言われています。1867年に陸援隊を結成し、尊皇攘夷運動に尽力しました。同年に坂本龍馬とともに京都河原町の近江屋で暗殺されました。

 

 

 

中岡慎太郎が結成した陸援隊とは?

幕末 洋式軍隊の行進

 

中岡慎太郎は1867年に陸援隊(りくえんたい)を結成しました。陸援隊は徳川幕府を武力倒幕のために結成された組織で、尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士たちが集められました。薩摩藩から派遣された洋式軍学者の鈴木武五郎が派遣されました。当初、70人以上の浪士たちが集められ、浪士たちは洋式訓練を受けています。

 

俺達尊攘派

 

 

 

中岡慎太郎暗殺後の陸援隊

 

1867年に陸援隊を結成した同じ年に坂本龍馬(さかもとりょうま)とともに暗殺されました。中岡が暗殺されると陸援隊は中心人物を失い、求心力を失いましたが、すぐに立て直します。田中顕助(たなかけんすけ)ら結成当時の幹部が中岡の後を引き継いだため、一時的に失った求心力を回復させました。大政奉還後に陸援隊は高野山に向かい、総数が約1000になるまで兵を集めることに成功します。

 

戊辰戦争には直接参加していませんが、近畿地方の幕府寄りの勢力を牽制することに成功しました。鳥羽伏見の戦いの後、高野山から下山すると京都に入ります。京都に入ると陸援隊は解散し陸援隊の隊士は明治新政府軍の御親兵として戊辰戦争に加わりました。

 

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

 

今回は中岡慎太郎が組織した陸援隊について取り上げました。陸援隊は大政奉還直前から鳥羽伏見の戦い直後までの短い間しか活動していなかったことや御親兵として加わったことについてはあまり知られていません。坂本龍馬が海援隊で、中岡慎太郎が陸援隊ということで、両者を比較してしまいがちになるかもしれません。

 

海援隊は日本初の株式会社で、貿易で利潤を出していました。一方で、陸援隊は尊王攘夷派で倒幕運動をするための組織です。海援隊と陸援隊の性質がまったく別物であることが分かりました。中岡慎太郎については写真に関するエピソードが有名です。中岡の写真については真面目な写真がありますが、右手で頬杖をついて首をかしげてこぼれるような白い歯を見せて笑っている写真もあります。中岡の隣に女性がいるツーショット写真もあります。中岡の隣の女性が塗りつぶされた写真もありますが、塗りつぶされていない写真もあります。

 

近藤勇 新選組

 

中岡が撮影したのは京都の「西洋伝法写真処」であると考えられます。当時、女性モデルを使って、被写体の侍と組み合わせて撮影するという斬新なやり方で有名になっていました。中岡慎太郎だけでなく新選組の近藤勇(こんどういさみ)も利用していたといわれています。隣の女性については不明な点が残っていて解決されていませんが、中岡慎太郎の写真の隣にいる女性については写真店のモデルである可能性もあります。

 

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