稲作をはじめとする様々な文化は
朝鮮半島を伝って日本にもたらされてきたと考えられています。
そのことについては中学校の社会科の授業で習って
なんとなく覚えているという人が多いでしょう。
そして、その昔朝鮮半島には百済や新羅
そして高句麗という国があったということも
記憶に残っているのではないでしょうか。
ところで、朝鮮半島の位置は幸か不幸か大国中国のお隣。
特に朝鮮半島の北部に位置していた高句麗は
漢や唐といった大国に属国扱いされてしまったこともしばしばあったようです。
しかし、実際に高句麗が漢や唐の属国だったかのかはまた別のお話です。
今回は漢代に的をしぼって
漢王朝と高句麗の関係について分析していきたいと思います。
高句麗が誕生したのは紀元前37年?
高句麗は漢王朝が成立した当初には存在していませんでした。
その成立については諸説あり、
謎に包まれた存在です。
12世紀に成立した朝鮮最古の歴史書である『三国史記』によれば
高句麗の成立は紀元前37年、
すなわち前漢の第10代皇帝・元帝の御代にあたると考えられます。
『漢書』には紀元前107年に「高句驪」の名が!
実は高句麗という国の名前らしきものは
紀元後1世紀頃に編まれた『漢書』に既に見られています。
『漢書』地理志において玄菟郡に属する県として
「高句驪」の名が挙げられているのです。
「麗」が「驪」になっているという違いこそありますが、
玄菟郡は中国東北部の南部から北朝鮮あたりに位置していたと考えられているため
この「高句驪」と「高句麗」はほぼ同じであると考えて良いでしょう。
ちなみに、玄菟郡はいわゆる植民地であったらしく
紀元前107年に前漢の7代皇帝・武帝が設置した郡なのだそう。
この玄菟郡高句驪県こそが
高句麗の前身であったと考えられています。
王莽に滅茶苦茶見下された高句麗
高句驪県は後に玄菟郡の郡治となり高句麗侯が冊封されます。
しかし、王莽が前漢王朝を倒して
新王朝を建ててから雲行きが怪しいことに…。
王莽は異民族蔑視政策を進め、
高句麗県を含む周辺の植民地を必要以上にこき下ろし始めたのです。
高句麗は「下句麗」に改名されて卑しめられました。
このことに怒りを覚えた高句麗県の人々は
隣接する漢の郡県に攻撃を繰り返すようになったのでした。
後漢代には漢の郡県を何度も襲撃
王莽が倒されて後漢王朝が開かれると
高句麗侯は光武帝に朝貢を行いました。
このことによって
勝手に「下句麗」と改名されていた高句麗県は
元のように堂々と高句麗県と名乗れるようになり、
更に高句麗侯は王に昇格されます。
しかし、高句麗は決して漢の従順な植民地ではいてくれず、
隣接する漢の郡県に何度も攻撃をしかけてきました。
漢王朝はそんな高句麗を持て余し、
紀元後2世紀はじめ頃には高句麗県が所属していた玄菟郡を西に移動して
高句麗に元の場所の領有を許可。
高句麗はこのときついに
1つの国として自分の領土を持つことができたのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
高句麗の国の記録については
『漢書』や『後漢書』の記述と
『三国史記』の記述とで一致しない点が多く
すり合わせるのが難しいです。
『漢書』や『後漢書』では「侯」扱いでも
『三国史記』では「王」と記されているなど
何が何だかチンプンカンプンになってしまうことが多々あります。
しかし、これは両国の「高句麗」に対する認識の
明確な違いを如実に表していると言えます。
中国側は高句麗を飽くまで植民地や属国として捉えており
朝鮮側は高句麗を独立国だと考えていたのでしょう。
昨今でも朝鮮は中国の属国だったとか
属国なんかではなかったとか
激しい議論が交わされることがしばしばあるようです。
少なくとも漢と高句麗の関係に関しては
はじめこそ高句麗は漢の植民地の1つだったかもしれません。
しかし、新王朝あたりからは独立の兆しが見え、
後漢代には高句麗側に1つの国としての意識が
芽生えて始めていたのではないでしょうか。
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