ロマノフ帝国とは?農奴と貴族、対立する身分制を融和できず革命に滅んだ北の帝国「ミクロネーション」

2022年6月25日


 

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オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

ロマノフ帝国とは、1613年に皇帝になったミハイル・ロマノフを初代皇帝とする帝国で、1917年にロシア革命によって倒されるまで304年間も継続した長期政権です。

 

ロマノフ帝国の時代に現在ロシアに繋がる様々な事が起きていますので、ここで分かりやすく解説してみましょう。

 

 

ロマノフ帝国の拡大から滅亡が1分で分かります。

 

 

 

イワン雷帝死後、ロシアは大動乱に陥る

 

西暦1584年、イワン雷帝として恐れられたイワン4世が病死します。

 

イワン4世について少し説明しておきますと、ロマノフ帝国の前身であるモスクワ大公国の統治者であり、3歳でモスクワ大公に即位。16歳になった1547年にロシア語で皇帝を意味するツァーリを自称し即位します。

 

イワン雷帝の政治は、モスクワ大公以上の権力を握る大貴族と抗争し有力者を次々と粛清して皇帝権力を強化する歴史でした。

 

彼は権力の基盤として小作人を土地に縛り付ける「農奴制」を徹底強化する一方、自身に絶対的な忠誠を誓うオプリーチニナという親衛隊を組織し貴族の子弟を隊員にして特権を与え、彼らと共同生活を送り鉄の団結力を維持します。

 

そして、オプリーチニナに命じて、イワンに批判的な貴族や勢力をあぶり出させ徹底的に弾圧しました。1570年、イワンはノヴゴロド市が敵に通じていると疑い親衛隊に街を襲撃させ市民3万人以上を殺害する暴挙までやっています。

 

恐怖政治で知られるイワン雷帝ですが、領土面では1552年にカザン=ハン国を征服。1556年にはヴォルガ下流、カスピ海北岸のアストラハン=ハン国を征服しました。

 

これにより、ヴォルガ川流域からシベリアに進出する道が開け、コサックのイェルマークが1581年に遠征隊を組織して征服を開始したシベリアを領土に組み込んで東方進出を開始するなど、皇帝としては評価されています。

 

イワン雷帝は、晩年は猜疑心の塊となり精神を病み、優秀な後継者を自分で殺すなど奇行が相次ぎ、1584年、雷帝が54歳で崩御した時、残っていた後継者は次男のフョードルだけでした。

 

しかし、フョードルは父とは似ない無能な人物で1598年に後継者を残せずに死去。リュ―リク朝は断絶し、それから十数年、ロシアは大動乱時代を迎える事になります。

 

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ロシア人が団結しミハイル・ロマノフをツァ―リに選出

 

ロシアの混乱は深刻化し長期化しました。ところがボヤーレ(貴族)たちは群雄割拠の勢力争いに血眼になり、隣国に協力を仰いで、勢力を拡大するという一番やってはいけない手段を取りました。

 

その結果、隣国ポーランドの名君、ジグムント3世がモスクワに偽皇帝を送り込んで間接的にロシアを支配しようとします。これを受けて貴族たちはポーランド人を追い出そうと、ポーランドと仲が悪いスウェーデンに援軍を要請、これに怒ったジグムントは兵を率いてロシアに攻め込んでモスクワを占拠しました。

 

ここに到ってようやく醜い争いを繰り返していた貴族も事態の深刻さを自覚し、商人のクジマ・ミーニンと大貴族ドミトリー・ポジャルスキーが決起して共同戦線を敷き、祖国解放の為に立ち上がろうと呼び掛けます。

 

こうして、民衆と貴族が参加したロシア国民軍が組織され、1612年モスクワからポーランド軍を追放しました。そして1613年に全国会議を開催、空位になっていたロシアの象徴として当時16歳のロマノフ家当主、ミハイル・ロマノフをツァ―リに選出します。

 

ミハイルは自ら皇帝になろうとした事はなく、ポーランド軍の捕虜にされていただけでしたが、ロマノフ家の娘がイワン4世の妃になっていた事やミハイルが16歳で、スウェーデンやポーランドと協力関係を結んだ「汚い過去」がない事が影響したようです。

 

うっとおしくてたまらなかったイワン雷帝の恐怖政治でしたが、ツァーリがいなくなると国内は騒乱ばかりになり、ロシアが外敵に侵略される事実をロシアの大貴族は受け入れ、再びツァーリを頂点に置いたのです。

 

強力な指導者に全権限を集中した時、ロシアは強大になるという典型例ですが、いずれにせよ、この時から300年も続くロマノフ帝国の幕が開きます。

 

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ロマノフ帝国、ウクライナの東半分を獲得

猛烈に強いテンプル騎士団

 

ミハイルの治世は32年に及びますが、多くは国内の再建に費やされ対外的なアクションは、ほとんどありません。

 

ロマノフ帝国が拡大する契機は16歳で即位した2代目ツァ―リのアレクセイの時代でした。1648年、かつてモスクワに攻め込むほど強大だったポーランド王国は弱体化、逆に隣国から攻め込まれる大洪水時代を迎えていました。

 

この頃、現在のウクライナでリトアニア=ポーランド王国の支配を受けていたコサックのボグダン・フメリニツキーが反乱を起こし、ロマノフ王朝に支援を要求します。アレクセイはウクライナ・コサックを支援して関係を強め、1654年にはロマノフ朝のツァーリに臣従します。

 

ウクライナを巡るロシアとリトアニア=ポーランド王国の戦争は1667年に講和となり、ロシアはウクライナの東半分とキエフ市を奪還。領土を西へ拡大します。アレクセイは1670年に起きたコサック、ステンカ・ラージンが起こした農民反乱を鎮圧し、より農奴制を強化しました。

 

ロシアにおける農奴反乱は、18世紀末の女帝エカチェリーナの時代にも、同じくコサックのブガチョフが起こしていますが、この時も鎮圧されロマノフ帝国は、さらに農奴に対する締め付けを強化しています。

 

また幼少の頃より、西欧流の教育を受けたアレクセイは西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲の国から官僚制と常備軍に支えられた絶対主義国家に変貌していきます。

 

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塩と人類の歴史

 

 

コサックとは?

 

さて、アレクセイのウクライナ支配に協力したコサックですが、一体どんな人々でしょうか?

 

コサックは英語読みで、ロシア語ではカザークまたはカザチェストボと言い「自由人」を意味します。コサックの正体は15世紀後半頃から厳しい農奴制から逃げ出した小作人や貧しい都市労働者で、ロシア南部から南東部地帯に集まり自警団を組織します。

 

彼らは抑圧に武力で抵抗する「自由な人」としてコサックと呼ばれたのです。

 

16世紀頃には、ドン、テレク、ウラルなどの川岸やウクライナのドニエプル下流のザポロージエ等、各地にアタマンと呼ばれる首領をもつ軍事的自治組織が誕生します。

 

イワン雷帝に仕えたエルマークのようにシベリア征服の尖兵に利用されたケースもありますが、18世紀に入るとロマノフ帝国の支配が強まり、コサックは不正規軍として辺境警備に従事します。

 

ただ、自由人としてのコサックは常にロマノフ帝国に従順だったのではなく、ラージンやプガチョフのように農奴を巻き込んで大規模な反乱を起こしたりしました。馬を乗りこなす騎兵であるコサックは驚異的な戦闘力を発揮しロマノフ帝国の脅威にもなったのです。

 

コサックには20世紀初頭に11の軍団があり、家族を含め総勢443万6000人もいて、その一部は日露戦争で日本軍と戦っています。ロマノフ帝国と切っても切れないのがコサックなのです。

 

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命がけの成人の歴史

 

 

派閥争いを勝ち抜きピョートルが即位

 

アレクセイは、マリヤ・ミロスラフスカヤと結婚し5男8女をもうけますが、後継者として残った男子は3男のフョードルと五男のイヴァンの2名でした。さらにフョードルは病弱で、イヴァンは病弱な上に失語症を抱えていました。

 

帝国の将来に危機感を抱いたアレクセイはナタリヤ・ナルイシキナと1671年に再婚。1671年にナタリヤが健康な男子ピョートルを出産すると先妻マリヤのミロスラフスキー家と後妻ナタリヤのナルイシキン家で時期皇帝を巡り派閥争いが繰り広げます。

 

病気のアレクセイは、争いを調停できないまま崩御しました。

 

3代ツァーリにはミロスラフスキー家のフョードルが即位しますが、在位6年で後継者がないまま死去し、4代ツァーリにはナルイシキン家が巻き返しピョートルが即位します。

 

しかしミロスラフスキー家では、イヴァンの姉ソフィアが逆襲、ナルイシキン家の重要人物を次々と殺害します。後ろ盾を失ったピョートルは降ろされ、イヴァン5世がツァーリとして即位しました。

 

ソフィアは摂政となりイヴァンを傀儡にして権力を握りますが、清朝と結んだネルチンスク条約により国内の支持を失い1689年にピョートルに政権を明け渡します。

 

ピョートルは失語症を乗り越え精力的に政務を執る異母兄イヴァン5世を尊敬していたとも言われ、廃位はせずに1696年のイヴァン5世の崩御まで共同統治者のままでした。

 

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鉄と日本の二千年史

 

 

ピョートル大帝の時代

 

ピョートル1世は1712年に新都サンクトペテルブルグを建設、スウェーデンとの北方戦争に勝利してバルト帝国と言われる強国を作り上げます。

 

欧州式の教育を受け、自ら欧州諸国を回って海外視察を繰り返したピョートル1世は、西欧に比較してロシアが立ち遅れている事を痛感し、自らが西洋化を実践する「上からの改革」を実行しました。

 

当時のロシア人は髭を生やさないのは男ではないと言われる程にヒゲを生やすのが当たり前でしたが、ピョートルは髭税を課してまで髭を切らしたのは有名です。

 

ピョートル1世の時代に勢力を誇った大貴族の勢力は削がれ、新興の官僚組織に権力を握られる事になり、ツァーリズムが完成しました。そしてこの頃から従来のルーシに代わり「ロシア」が正式な国号とされ、ロシア帝国が実体を伴って成立します。

 

数々の業績から、ピョートル1世は大帝の称号を贈られピョートル大帝と呼ばれました。

 

 

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科挙の歴史

 

ツァーリ争奪戦と女帝の活躍

 

1725年ピョートル大帝が死去した後、ロマノフ帝国ではツァーリの継承で混乱が続きます。具体的には、皇后エカチェリーナ1世、孫のピョートル2世、さらにピョートル大帝の姪、アンナと短期間でツァーリが次々と変わりました。

 

ピョートル大帝の姪であるアンナには子がなく、このままではピョートル大帝の娘で、近衛兵団に人気があるエリザヴェータの即位が目に見えていました。そこで、アンナは崩御の直前、姪のアンナの子のイヴァン6世を生後2カ月で即位させて、エリザヴェータへの皇位継承を阻止しようとします。

 

しかし、エリザヴェータは入念に根回しし、フランスやスウェーデン公使と密約を結び、ピョートル大帝が組織した近衛兵を動かしクーデターを決行。冬宮殿に入りイヴァン6世の母で摂政のアンナを逮捕して幽閉、エリザヴェータ女帝として即位しました。

 

結果、幼いイヴァン6世は廃位され、20年以上幽閉された後で殺害されます。

 

エリザヴェータは、父のピョートル大帝を模範とした絶対君主制を再建しようと内閣制を廃止。皇帝官房を設置して貴族政治に戻します。同時に製鉄業や酒造業など商工業の育成を図りますが、大地主でもある貴族の優遇は農奴制の強化に繋がっていきました。

 

対外的には、女帝アンナがドイツを優遇したのに反対。オーストリア継承戦争ではオーストリアのマリア・テレジアと同盟し、同じくオーストリア側についたイギリスがフランスと戦うのに際し援軍を派遣。次の七年戦争でも、オーストリアを支援しプロイセンのフリードリヒ2世と戦います。

 

七年戦争の最中、女帝エリザヴェータが崩御。後継者として姉の子がピョートル3世として即位しました。

 

ピョートル3世はエリザヴェータと正反対にフリードリヒ2世を尊敬しており、オーストリアとの同盟を一方的に破棄しプロイセン不利が一気に逆転、オーストリアの敗北で終わります。

 

1762年、ピョートル3世の皇后でドイツのホルシュタイン家出身のエカチェリーナが反ピョートル3世派の宮廷官僚と近衛兵部隊を動員しクーデターを決行。ピョートル3世を幽閉し女帝エカチェリーナ2世として即位します。

 

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カレンダーの世界史

 

 

女帝エカチェリーナ2世時代

フランス革命

 

エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主として改革や文化の保護にあたりつつ、ポーランドの分割に加わりアメリカの独立戦争に対しては武装中立同盟を提唱して独立を助けました。

 

エカチェリーナ2世時代は、フランス革命、そしてイギリスの産業革命が展開した時代であり、ロシアも改革を急がねばならない状況でした。

 

しかし、エカチェリーナ2世は生粋のドイツ人であり、さらに夫をクーデターで追放して幽閉した事などで国内には多くのアンチエカチェリーナがいて、権力を維持するには、どうしても守旧派の大貴族の支持を取り付けないといけませんでした。

 

何度か述べていますが、ロシアの大貴族は=大地主であり、彼らの機嫌を取るという事は、農奴に対して過酷な措置を続けるという事でした。そのため、エカチェリーナ2世の改革は「上からの改革」に留まり、1773年に大規模な農民反乱であるブガチョフの反乱が起きるとこれを徹底弾圧します。

 

同じ頃、欧州で自由、平等、同胞愛が叫ばれ絶対王政の崩壊と、国民国家の成立が始まっていた頃、ロマノフ帝国ではそれに逆行する事が起き、農奴制の放置はロマノフ帝国を崩壊される時限爆弾となるのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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