前漢の皇帝といえば
武帝の名を知らない人はいないのではないでしょうか。
前漢の全盛期を築き上げた
その功績は後世において
大きく讃えられています。
しかしその一方で、
『史記』を著したことで名高い司馬遷を
その友人・李陵を庇ったという罪によって宮刑に処すなど
なかなか短絡的な一面も。
そんな武帝とは一体どのような人物だったのでしょうか。
その素顔に迫ってみたいと思います。
16歳で即位した幼帝
武帝は「文景の治」を行ったことで名高い
景帝の十男、もしくは九男として生まれました。
兄が8~9人もいたわけですから、
武帝が生まれたときは
誰もがこの子が皇帝になるとは
思っていなかったでしょう。
武帝は4歳で膠東王に封ぜられ、
だれもが膠東王として
一生を終えると思っていたはずです。
皇太子には栗姫が生んだ
景帝の長男・劉栄が立てられていましたし、
武帝の出る幕などありませんでした。
ところが、
ここに女たちのドロドロバトルが勃発。
栗姫のことが大っ嫌いだった
景帝の姉である館陶公主・劉嫖が口をはさみ、
王夫人の子である武帝を皇太子に推薦し始めたのです。
栗姫も息子が皇太子になってから調子に乗っていたために
景帝に煙たがられていたらしく、
景帝は姉の言うことを聞いて劉栄を廃嫡し、
武帝を皇太子に立てたのでした。
このような女同士のドロドロバトルの末、
皇太子となった武帝はたった16歳で即位。
即位当初は祖母である太皇太后・竇氏に実権を握られ、
やはり女に振り回されていたようです。
中央集権の確立と儒教の官学化
鬱陶しい祖母が亡くなると
武帝は持ち前の政治手腕を発揮するようになりました。
武帝は景帝時代に起こった呉楚七国の乱の反省を踏まえ、
漢王朝を地方分権制から中央集権体制に移行することに尽力。
一方で諸侯王たちに不満を抱かせないよう
諸侯王たちには領地をその親族に分け与えることを許す
推恩の令を出しました。
ところがこの制度は
諸侯王の領土をより細分化させて弱体化する狙いがあった模様…。
武帝はより良い人材を集めるべく、
官吏任用制度についても一新します。
各地に埋もれている才人を見出すべく、
郷挙里選を制定。
武帝は董仲舒の助言に従って
儒教を官学として五経博士を設置し、
郷挙里選によって儒教の教養を身につけた人物を
積極的に中央に呼び寄せたのでした。
積極的な外征で漢の最大領土を築く
武帝といえばやはり積極的な外征が有名です。
高祖・劉邦以来、
匈奴に対して及び腰だった漢王朝でしたが、
武帝の時代には一転して積極的に打って出ました。
もちろん、
強敵である匈奴相手に苦戦を強いられることは度々ありましたが、
衛青と霍去病の活躍によって匈奴を何度も圧倒。
さらに、
中央アジアの大宛を征服して
千里をも走り続けるという汗血馬を手に入れ、
今のベトナム北部にあった南越国や
衛氏朝鮮を滅ぼして郡を置くなど
東西南北全ての方角において領土を広げていきました。
武帝の積極的な外征は功を奏し、
漢の最大領域を獲得。
高祖でさえ成し遂げることが叶わなかった
匈奴打倒を達成したことによって
武帝は泰山で封禅の儀を行い、
天下に名を轟かせました。
不老不死願望にとりつかれ…
素晴らしい成果を収めた武帝ですが、
次第に驕りにとりつかれていってしまいます。
武帝の周りからは直言の士が遠ざけられ
甘い言葉ばかり囁く佞臣が集まるように。
その結果、
無実の李陵の一族を皆殺しにしたり
李陵を庇った司馬遷を宮刑に処したりするなど
暗君めいた振る舞いをしてしまうようになってしまいました。
さらに、
外征によってただでさえ
お金が飛んでいったというのに
不老不死の願望が強まって
ますますお金を使うようになってしまい、
「文景の治」で築いた山のような財産はスッカラカン。
民草に重税を課したり
粗悪な貨幣を発行したりして
民草の不満が大爆発。
あちらこちらで反乱が起こったのですが、
それを法に厳しすぎる酷吏を使うことによって
無理矢理抑えつけようとしたのでした。
しかし、
反乱は抑えきれず、
ついには太子にも反乱を起こされてしまいます。
武帝は情緒不安定になって神仙思想に傾倒。
自分が誰かに呪われていると思い込み、
武帝に呪いをかけた疑いのある者は
証拠もないのに次々と処刑される
巫蠱の獄が起こってしまったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
名君が一転、
暗君になってしまった武帝ですが、
漢王朝の絶頂期を築き上げたその偉業は
色あせることがありません。
しかし、
もしも武帝が文帝や景帝のように
謙虚な姿勢を保つことができたならば
父や祖父と共に
その治世を評価されていたかもしれませんね。
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