漢王朝とはどんな王朝?「あの頃は良かった」と人々に言わしめた漢王朝

2019年2月5日


酒を飲む曹操、劉備、孫権

 

「あの頃は良かった…」と口にする人は古今東西たくさんいますよね。中には自分が生まれていなかった時代に思いを馳せて「あの時代に生まれたかった…」なんて遠い目をする人もいるでしょう。実は、中国にもそんな人たちはたくさんいました。彼らは誰もかれもそろいもそろって「漢王朝の御代は良かった…」と遥か遠い時代の漢王朝に思いを馳せ、彼らが生まれた時代について不満を垂れ流していた様子。

 

しかし、彼らが言うほど漢王朝は素晴らしい時代を築いていたのでしょうか?今回は漢王朝とはどのような王朝だったのかについてご紹介したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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項羽を破った劉邦によって建てられた漢王朝

劉邦と項羽

 

秦の始皇帝(しんのしこうてい)の死後、秦の圧政に苦しんだ民草の不満が爆発。陳勝・呉広の乱が勃発し、中国大陸は戦国時代の人々も真っ青になるくらいの騒乱状態に陥りました。そんな中、みるみるうちに台頭してきたのは項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)の2人。最初2人は同盟関係にあったのですが、劉邦が抜け駆けして秦の首都・咸陽を攻め落としてしまったからさぁ大変。ブチギレた項羽によって漢中に追いやられてしまいます。

 

その後、自分で担ぎ上げた義帝(ぎてい)を自ら殺した項羽に不満を抱いた者たちによる反乱が起こり、それに劉邦が乗っかったことによって楚漢戦争が勃発。垓下の戦いで項羽を破った劉邦は長安を都として漢王朝を立てたのでした

 

 

 



劉邦による大粛清と呂后による専横

呂雉(りょち)

 

天下統一直後、劉邦は自分が皇帝となれたのは臣下たちのおかげだと心の底から臣下たちを労い、たくさんの恩賞を与えました。劉邦のこのような謙虚で誠実な姿勢は人々に理想の皇帝像として刻まれることになります

 

ところが、そんな劉邦の心を次第に黒い感情が支配し始めました。項羽を倒す際に活躍してくれた力を持つ臣下たちに対して「俺が死んだ後、こいつらが皇帝になる気なのでは…?」と猜疑心を抱くようになってしまったのです。その結果、韓信(かんしん)をはじめとする功臣たちを次々に粛清。

 

でも、韓信を殺したことを後悔する一面を見せるなどなかなかの不安定っぷりを発揮します。そんな劉邦は自分の血を引く者が栄えるようにと郡国制を制定した後崩御。劉邦の死後は劉盈(りゅうえい)恵帝(けいてい)として即位したものの、気が強い呂后(りょこう)が政治の実権を握り、外戚政治が盛んに行われるようになってしまいます。こうして、劉邦の劉氏繁栄の願いは儚く消え去ろうとしていました…。

 

 

呂布対項羽

 

 

文景の治で持ち直す

文帝(前漢)

 

 

先が危ぶまれた漢王朝でしたが、呂后の死後に呂氏一族が粛清され、5代皇帝として劉恒(りゅうこう)文帝(ぶんてい))が即位してから事体が好転します。文帝は税を30分の1に減らしたり貧窮した者たちに援助をしたり、自ら倹約に励んだりといった善政を敷き、人々のために尽くしました。続いて即位した劉啓(景帝(けいてい))も文帝と同様に人々を慈しむ政治を行い、人々の生活を豊かにすることに成功しました。彼らの統治は文景の治として称えられています

 

 

武帝の時代に絶頂期を迎える

 

国が豊かになり、諸侯王の力も強まったことによって呉楚七国の乱が起こるというアクシデントがあったものの、漢王朝の権威はぐんぐん高まり、7代皇帝・劉徹(りゅうてつ)武帝(ぶてい))の時代に絶頂期を迎えました。武帝は始皇帝以来の封禅の儀を泰山で行い、漢王朝の威光を天下に轟かせました。また、優秀な儒者を招こうと郷挙里選を制定したり、積極的に異民族討伐に出かけて領土を拡大したりシルクロードの交易路を開いたりと中国の礎とも言えるものを次々と築いていったのでした。

 

 

中興の祖・宣帝

 

武帝時代の後半からは法に厳しすぎる酷吏の任用によってしばらくの間暗雲とした時代が続きますが、その状況を打破してみせたのが、9代皇帝・劉詢(宣帝(せんてい))でした。彼は人々を正しい方向に導く循吏を登用するなどの善政を敷き、また、長年苦しめられてきた匈奴の一部を臣従させることに成功したことから中興の祖と讃えられるようになりました。

 

 

王莽の簒奪があったものの400年続いた漢

簒奪する王莽

 

このように、多くの優秀な皇帝が現れた漢王朝でしたが、王莽(おうもう)の簒奪によって200年ほど続いた命脈が絶たれてしまいます。しかし、すぐに息を吹き返し、三国時代が到来するまで更に200年もの間漢王朝は続きました。合計で400年もの間続いた漢王朝はその後多くの王朝のお手本となる存在に。また、儒学が盛んに行われるようになった時代ということもあり、後世多くの儒者たちが憧れる王朝にもなったのでした。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

謙虚で誠実な高祖、優秀な皇帝の数々、400年という長い歴史、儒教の発展…。漢王朝が後世の人々に憧れられる理由は他にも数えきれないくらいたくさんあります。暗黒時代といえるものも定期的に訪れていたようですし、後漢時代は外戚と宦官の争いでほとんど滅茶苦茶ですが、そういったことを加味しても漢王朝は人々の憧れとなりうる素晴らしい王朝だったのではないでしょうか。

 

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楚漢戦争

 

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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