『列子』は「朝三暮四」や「杞憂」のお話が載っている道家の思想書です。
道家というと、老荘思想とか仙人とかのイメージがありますよね。
『列子』には「朝三暮四」のような通俗的な逸話だけでなく、哲学としての老荘思想を説いたような話も載録されています。
本日は、『列子』の天瑞篇で「道」について説明されている哲学的な部分を読んでみましょう。
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「道」とは何ぞや?
今回ご紹介する話の中では、まず最初に、形のあるものは必ず滅びると述べられています。
そうして、次のような文章が続きます。
それでは、「道」は終わることがあるのだろうか。
いやいや、「道」は元来、始めもなければ終わりもないのである。
では、「道」はなくなってしまうのだろうか。
いやいや、「道」は元来、〔形や終わりのある〕万物のような存在ではないのだ。
「道」って、なんじゃらほい。「道教」の「道」なんでしょうけれども……
続きを読んでみましょう。
およそ、すべて生あるものは、「不生」のもの、すなわち生成変化消滅を超越した宇宙の根源である「道」に帰ってゆき、すべて形あるものは、「無形」のもの、すなわち形のない宇宙の根源である「道」にと帰ってゆく。
そして、この「不生」のもの、すなわち生成変化消滅を超越した根源である「道」は、元来なんら生命力を持たぬ単なる「不生」のものとは違うし、この「無形」のもの、すなわち形のない根源である「道」は、元来なんら姿・形を持たぬ単なる「無形」のものとは全く違うのである。
道というのは、物質世界のあれこれとは別次元のもので、宇宙の運動の根本を司っているものだ、っていうような感じでしょうかね?? 分かるような分からないような……
人生において死とは当然の帰着である
「道」の説明の後には、道理に従った人生のありかたが述べられます。
すべて万物として生まれてきたものは、理の当然として必ず終わるとき(消滅・死)があるのである。
終わるときがあるものが終わらないわけにいかないのは、恰も生まれてくるものが生まれてこないわけにいかないのと同様〔に真理〕なのである。
それなのに、その〔万物としての〕生を永久不滅のものとし、その終わり(消滅・死)をなくそうとするのは、それこそ理の当然に戸惑ったものといわねばならぬ。
おや、道教=神仙思想というようなイメージがありましたが、ここでは神仙思想を否定するような感じですね。道教、神仙思想、老荘思想、って、きっとそれぞれ意味が違うのでしょう……。
あるべき場所へ帰るのみ
さて、上では死が人生の当然の帰着であることが述べられていました。
このあとの部分が、私は個人的にとても好きです。
〔人が死んで、〕精神が肉体から分離すると、分離した精神と肉体はそれぞれ本来の住処〔である天と地〕に帰ってゆく。
そこで死んだ人間をば指して「鬼(き)」というのである。
「鬼」とは帰(き)すなわち帰(返)るという意味であり、その「真宅」すなわち本来の住処に帰ってゆくことをいう。
だからこそ、黄帝も「人間の精神はもと出てきた門(天)に戻ってゆき、肉体はその生まれてきた根本(地)に帰ってゆく。もはやこの自分などはいったいどこに存在しようか」と言っておられるのである。
人間は生きている間は精神も肉体も自分のもののように思っていますが、死ねばそれぞれが帰すべきところに帰って行くのだそうです。
ここで述べられている死は、道理に従って動いてゆくだけの自然なことであるようです。
道理に従っているだけ、と思うと、自分の何もかもが「道」に受け入れられているようで、何も悩んだり恐れたりしなくていいのかな、と思えてきませんか?
三国志ライター よかミカンの独り言
『列子』の中には、人間の一念によって物理原則を超越することができるという現世利益的な思想を述べている逸話もあれば、今回ご紹介したような、あるがままを受け入れるという哲学を説いた部分もあります。
道教の様々な様相を見ることのできる奇書といえるでしょう。
参考文献: 小林勝人訳注 『列子』 岩波文庫 1987年1月29日
※記事の中で引用した文章はこの本によりました。
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