徳川四天王の一人・本多忠勝。本多忠勝は13歳で初陣を飾った後、ずっと戦陣に明け暮れていた武辺者です。
武田信玄は本多忠勝の武辺を「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と褒めちぎっていました。そんな武辺者・本多忠勝の身長は一体どれくらいあったのでしょうか。
この記事の目次
本多忠勝の身長はどれくらいあったの!?
本多忠勝の身長はどれくらいあったのでしょうか。実は本多忠勝の身長の詳細についてはわかっていません。しかし本多忠勝が戦に使用していた甲冑等から推測することはできます。
本多忠勝愛用の蜻蛉切から身長推測
本多忠勝は戦に赴く際、必ず一本の槍を手にしていたそうです。その槍の名前は蜻蛉切と言います。この槍の名前ですが、蜻蛉切の槍の穂先にトンボが止まって真っ二つになったことが由来になっているそうです。蜻蛉切の長さは全体で二丈(約6メートル)程の長さで、装重量は500グラムほどだったそうです。
このチョー長い槍をぶん回すにはかなりの筋肉と身長がなければ振り回せなかったでしょう。そのため本多忠勝の身長は蜻蛉切から推測するに170センチ以上はあったのではないかと推測できます。次に本多忠勝が愛用していた鎧から身長を推測してみたいと思います。
本多忠勝愛用の黒糸威胴丸具足から身長推測
本多忠勝は愛用の蜻蛉切と一緒に黒糸威胴丸具足の鎧を着て戦場へ出陣していたそうです。この黒糸威胴丸具足の鎧は胴高が39センチ、胴回りが122.5cmほどだったそうです。戦国時代に独眼竜と言われた伊達政宗は159.4センチ。彼が着用していた鎧の胴高は38センチでした。
そしてここから単純に計算して導き出すと本多忠勝の身長はあまり高くなく160センチを少し超えるほどだったと予測することができます。6メートルもの長槍・蜻蛉切を振り回していたにも関わらず、意外と本多忠勝の身長が低かったのです。
戦国時代の大名の身長は?
本多忠勝の身長は160センチを少し超えるほどと予測しましたが、戦国時代に活躍していた大名たちの身長はどれくらいだったのか紹介したいと思います。本多忠勝の主君で江戸幕府初代将軍・徳川家康の身長は155センチ~158センチほどだったそうです。
また豊臣秀吉は154センチほどで家康とあまり変わらない身長でした。武田信玄(153センチ)も徳川家康や羽柴秀吉と同じくらいの身長だったそうです。越後の龍で有名な上杉謙信は上記で紹介した人々よりも身長が高く160センチほどだったそうです。
織田信長はどの程度の身長だったのでしょうか。織田信長は約169センチほどで上記で紹介した人々よりも背が高く、顔も端正でイケメンだったそうです。しかし戦国時代には現代人よりも大きな身長の人物がいました。
チョー高い巨人クラスの身長を持った大名たち
戦国時代には現代人よりもはるかに高い身長をもった大名がいました。斎藤道三の息子・斎藤義龍は197センチほどあったそうです。
さらに豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼も斎藤義龍と同じように197センチほどあったそうで、体つきもがっちりしていたそうです。これだけ背の高さがあれば、敵国の武将や他国の使者に対してかなりの威圧感を与えていたのではないでしょうか。
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戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は本多忠勝の身長と戦国時代の主要人物たちの身長を紹介しました。ここでもう一人だけ身長の高い人物を紹介しましょう。それは北条家に仕える風魔軍団の棟梁・風魔小太郎です。彼は伝承ですが、身長が2メートルを超える大男だったそうです。
2メートル超えの身長を持った人なんて現代にもあまりいませんから、平均身長が157センチほどだった戦国時代でしたらバケモノみたいに思われていたかもしれませんね。
■参考 知識ゼロからの戦国武将入門編など
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