今回は岩瀬忠震について取り上げます。岩瀬忠震は幕末に日米修好通商条約など外交交渉に尽力した人物で、高校の日本史の教科書でも取り上げれています。開国論者として外国との貿易を通して富国強兵を目指していましたが、左遷され政治の表舞台に出ることなく死亡しました。
この記事では岩瀬忠震の生涯について取り上げます。後半では岩瀬忠震の写真と墓について紹介します。
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岩瀬忠震とはどんな人?
岩瀬忠震は1818年に旗本・設楽貞丈の三男として江戸芝愛宕下西久保で生まれました。1840年に岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家の家督を継ぎました。
1843年に昌平坂学問所の試験に合格し、学問での才能を発揮し始めます。1854年に老中首座の阿部正弘に才能を見い出され、目付に任命されました。阿部正弘が老中だった頃、ペリーが来航した頃で、国難に立ち向かうために外様大名など様々な藩から意見を募っていました。その後、講武所・蕃書調所の開設や品川の砲台の建設に尽力しました。
岩瀬は外国奉行に就任すると、アメリカの総領事ハリスと交渉します。岩瀬は開国に積極的な幕臣として知られています。1858年、日米修好通商条約に調印しました。アメリカだけでなく、オランダ・イギリス・フランス・ロシアと同様の修好通商条約に調印しています。ハリスは岩瀬の外交交渉を評価していたと書き残しています。
13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、岩瀬忠震は徳川慶喜を支持する一橋派に属していました。井伊直弼による反対派を排除する安政の大獄によって岩瀬は左遷されました。後に蟄居を命じられ、1861年に44歳で病死しました。
岩瀬忠震の写真
岩瀬忠震の写真がイギリスで発見されました。ハリスと日米修好通商条約と交渉していた頃、同様の条約をイギリスと結びました。この条約は日英修好通商条約で、関税自主権がないことや治外法権(領事裁判権)を認めていました。
日英修好通商条約の交渉をしていたときの岩瀬忠震の写真が発見されました。日本では2008年に横浜開港資料館が借り受ける形で公開されました。このイギリスで発見された写真には岩瀬を含む7人がいます。岩瀬は後列の左側ですが、写真がブレているためはっきりと写っていません
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
岩瀬忠震を題材にした小説は?
まず、島崎藤村の小説『夜明け前』について取り上げます。この小説では、1853年から1886年までの激動の幕末・明治維新を、木曽の馬籠宿が舞台になっています。この小説で岩瀬忠震が登場します。
次に、幸田露伴の『幕末の政治家』で岩瀬忠震が登場します。『幕末の政治家』は幸田露伴が明治時代に発表した小説で、1951年に刊行された『露伴全集』の第5巻に収められています。
あらすじは次の通りです。お香を焚くと、煙の中に死んだ人の姿が現れるという形で物語が展開されています。この煙を通して、幕末の大名や幕臣の容姿を紹介します。幸田露伴の『幕末の政治家』で岩瀬忠震は登場しますが、露伴の小説とイギリスで発見された写真とは異なるようです。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は幕末の外交官岩瀬忠震について取り上げました。岩瀬忠震はアメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアとの外交交渉を行っていましたが、交渉以外で岩瀬は表舞台に登場することはほとんどないことが分かりました。交渉した外交官が岩瀬でなかったら、この不平等条約は日本にとってさらに不利になったのかより有利な内容になったのか気になります。
最後に、岩瀬忠震の墓について紹介します。当初は文京区の蓮華寺に葬られましたが、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に改葬されました。この後、岩瀬忠震の功績を讃える石碑が建立されています。
この記事では岩瀬忠震の外交交渉で使用した言語について取り上げませんでした。幕臣が習得して外交交渉で使用した言語に注目したいと思います。
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