織田信長が日本に与えた影響とは?南蛮から取り入れた文化や後世への影響

2019年3月28日


 

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水軍を作る織田信長

 

織田信長(おだのぶなが)といえば南蛮文化を積極的に取り入れたり、改革を行ったりしたことで有名です。

 

今回は織田信長が取り入れた文化や行った改革で後世に影響を与えたものについて取り上げます。この記事の前半ではキリスト教の布教が許されるまでの過程と織田信長がキリスト教の布教を許した狙いについて取り上げます。

 

後半では南蛮文化を取り入れたことによる日本の城の変化について取り上げます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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キリスト教の宣教師が織田信長から布教を許されるまで

セミナリオ(教会)

 

1543年、ポルトガル戦が種子島(たねがしま)に漂着し、鉄砲が伝えられました。

 

この漂着について、当時の日本人が初めてヨーロッパの人々を見ました。

当時の人々はヨーロッパの人々を南蛮人といい、彼らの持ち込んだ文化を南蛮文化といいました

 

1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に着き、キリスト教を伝えます。その後、ザビエルの一行は山口を経て京都に着き、織田信長に会いました。

織田信長からキリスト教の布教の許可を得ます。

 

 

 

織田信長がキリスト教の布教を許した狙いとは?

足利義昭

 

織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を伴って上洛し、15代将軍に擁立しました。

 

しかし、織田信長と足利義昭は次第に対立するようになります

足利義昭は織田信長を攻めるよう全国の大名に呼びかけ、包囲しました。

 

この包囲を信長の包囲網と呼びます。足利義昭の呼びかけに応じたのは、一向一揆・浅井長政(あさいながまさ)朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍、武田信玄(たけだしんげん)上杉謙信(うえすぎけんしん)毛利輝元(もうりてるもと)です。

 

信長は包囲網の中で一向一揆との戦いに苦戦していました。一向一揆に対抗する手段としてキリスト教を取り入れたといわれています。当時の仏教勢力はお布施や政界とつながることで権力を持っていました。

 

信長は仏教徒からキリスト教徒に変えることで、仏教勢力の切り崩しを図りました。信長がキリスト教の布教を許した結果、城下町の安土にセミナリオやコレジオというキリスト教の教育機関ができました。

 

 

南蛮文化の影響と日本の城の変化

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

1543年に種子島に鉄砲が伝えられると、日本の城は大きく変わりました。

 

山や川など自然を利用して防御を最大限に利用するために、山の上や小高い丘に建てられていました。鉄砲を利用した戦いが主流になると、日本の城は山の上や小高い丘から平地に建てられました。

 

織田信長は南蛮文化を積極的に取り入れ、城の建設と街づくりに活かしました。従来の日本の城では、大名の政治を行う天守閣と居住する場所は別々でしたが、安土城では信長が政治と居住を同じ場所で行っていました。

 

また、安土城の城内の道は広くて歩きやすくなっていたことから政治的な機能を重視したと考えられます。何らかの形でキリスト教の宣教師から西洋の街づくりについて学んだのかもしれません。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は織田信長が南蛮文化を取り入れたことによる影響について取り上げました。前半では信長がキリスト教の布教を許した狙いについて取り上げました。後半では、南蛮文化の影響と日本の城の変化について取り上げました。

 

織田信長は城や街づくり以外でも南蛮文化を取り入れます。特に西洋風のマントと帽子は好きだったようで、西洋風の格好で出かけていたことは有名です。また、戦では西洋甲冑を愛用していたといわれています。

 

西洋甲冑は硬い鉄板でできていて、鉄砲の弾丸は貫通しないという特徴があります。本能寺の変で信長が自害した後、西洋甲冑を使った戦国武将がいるのか気になります。

 

最後に、もし本能寺の変がなく織田信長が生きていたら南蛮文化の影響がさらに続いた可能性があります。

 

政治の拠点だった安土城では、当時ほとんどの日本人が権力者を間近で見ることができませんでしたが、信長は安土城の天守閣で人々の前に出てローマ法王の演説のまねをした可能性があります。

 

日本が産業革命や民主化の先駆けになったのかもしれません。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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