「宮刑」と呼ばれ、処刑によって宦官になった人がいた時代。
医療技術が成熟していなかった時代の宦官手術とは、どんなものだったのでしょうか。当時の死亡率も併せて紹介していきます。
刑罰として手術する場合
権勢を誇る皇帝にとって怖いのは異民族からの侵略でした。戦いに勝つと敵の捕虜に対して、子孫が繁栄しないよう刑罰として性器を切除したのが宦官の始まりとされています。
中国の刑罰としては「宮刑」と呼ばれ、皇后が住む「後宮」に仕えることから宮刑と呼ばれたようです。刑罰の重さとしては死刑に次ぐ、重い刑で子孫繁栄を推奨する中国社会では恥とされました。中には死刑をまぬがれて宮刑に処された例もあります。それが歴史家の司馬遷でした。
李陵を擁護した経緯から皇帝の怒りを買い、司馬遷は宮刑に処せられます。彼は自殺することなく宮刑を選びます。理由は『史記』を完成させるためです。自害することなく宮刑によって生きる道を選んだのです。のちに彼は宮刑のことを最大の恥辱と語っています。
しかしながら、史記の完成は父親の遺言でもあり、なんとしても成し遂げたいという強い意志を抱いていました。このように刑罰としての去勢手術は戦争捕虜だけでなく、臣下に対しても実行されました。
自ら手術する場合
刑罰としての宮刑があるのに、どうして自ら去勢して宦官になる人が現れたのでしょうか。これは中国の統治システムに起因します。
中国で出世するには良家の生まれでない場合、難関といわれた科挙に合格するしかありませんでした。ところが宦官になれば試験なしで宮廷に上がれるとあって、応募が殺到したのです。
それが明の時代。王宮には10万もの宦官が仕えていたという記録も残っています。当時の資料によれば、ある時の宦官募集では3,000人の定員に2万人が応募してきたとのことです。それくらい自ら去勢して宦官になる人がたくさん現れたのです。この場合は後宮に仕えるだけで戦争捕虜ではありませんから、手術方法もわりと丁寧でした。
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宦官手術の死亡率は高かったの?
中国の漢王朝以前は手術後もろくな処置をされず命を落としてしまう人がたくさんいました。隋王朝では自ら去勢する「自宮」は廃止されるものの明王朝で復活します。このころになると手術方法も確率され、清王朝に至っては1パーセントにまで死亡率が下がったとのことです。
また、中国の影響を色濃く受けた朝鮮半島にも宦官制度は伝わり、去勢手術して宦官になる人がいました。その際に陰茎を切ると死亡率が上がるため睾丸の摘出のみで宦官とすることが多かったようです。朝鮮王朝は中国に逆らえない立場であったことから、中国に宦官を送っていたこともあります。
当時の中国は朝鮮を自分の国の一部として考えていたため、貢物なども朝鮮から取っていました。
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宦官になる時の痛みは?
自ら志願した者でも痛みは相当なものだったようです。手術前は数人が体を抑えて行い、手術後は意識を失うほどだったとか…。子どものときに切除された場合は除き、成人してからの切除はまだ性器が残っているという不思議な感覚を味わうそうです。さらに性欲は収まることがなかったため、道具を使って女官と宦官が交わっていたという話も残っています。
切られた後はどうなったの?
自宮した者は大切に性器を保管します。
中国では死んだ後に性器を体と別に埋葬すると「ロバ」になってしまうと信じられたためです。また、宦官の間では去勢した証拠として「宝」と呼ばれる性器を検査することがあり、ケースによって「宝」の盗難事件も発生しました。手術費用の担保として「宝」を質入れすることもあり、制度として一般化していたことが伺えます。
三国志ライター 上海くじらの独り言
現在では廃止されている制度ですが、国によって科学的去勢は行われており、性犯罪者に対して行われるケースが見受けられます。
科学的な治療という建前ですので、刑罰の対象ではないようです。時代は変わっても人の考えることに大差はないのかもしれません。
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