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衝撃!宋銭の価値って?鎌倉の大仏になった宋銭

2019年10月1日


 

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宋銭 お金と紙幣

 

日本では、平安時代の乾元大宝(けんげんたいほう)以来、荘園(しょうえん)の全盛期を迎えた事で大和朝廷の全国支配が弱まり銭貨は発行されなくなります。

以来、日本では絹が通貨の役割を果たしていたのですが平安末期、1150年頃になると渡来銭である宋銭(そうせん)が通貨として大量に流通するようになります。

しかし、日宋貿易において宋銭は使用されず金や銀の地金で決済されていました。

日本が宋銭を輸入していた当初の理由は通貨としてより、その銅が必要だからだったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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なんと貿易船のバラストだった宋銭

鉄甲船

 

日本が宋銭を輸入したのは、国内通貨の代替(だいたい)にする為ではありませんでした。

実際には、銭としての役割以上にその含有物(がんゆうぶつ)である銅に需要があったのです。

例えば、日本からの貿易船は国内から金や硫黄を中国にもたらし、帰国する時には陶磁器(とうじき)を満載していました。

しかし、陶磁器は金や硫黄より比重が軽く船が安定しないので、バラスト代わりに宋銭を底荷にしたという驚きの研究結果も出ています。

当初から宋銭が通貨として考えていたなら、それを底荷にしようという発想は湧いてこないでしょう。

 

鎌倉の大仏の原料は宋銭

 

当時の日本では銅が貴重だったので銭貨ではなく銅そのものに価値を見出されたという説は有力です。

つまり、輸入した宋銭は鋳潰して銅として再利用されたというわけです。

例えば、鎌倉の大仏の原料は宋銭であると考えられていて、その根拠は宋銭も大仏も組成が銅70%、鉛20%、錫10%

ぴったりと一致しているからです。

素直に考えると、輸入された大量の宋銭が鎌倉の大仏に化けたと言う事になります。

 

麒麟がくる

 

空前の仏教ブームで銅需要が高騰

 

宋銭輸入の背景には当時の日本で銅の採掘が枯渇(こかつ)していた事と、仏教信仰が広がった結果として仏像・仏具の需要が

かつてない程に高まっていたという背景があるようです。

また、宋銭そのものが当初、貨幣として輸入されなかった理由として、日本では鉄銭や宋銭の大型版である大銭が

ほとんど出土しない事も挙げられます。

 

大銭は額面の価値こそ小型の宋銭の5倍や10倍ですが、使われている銅が5倍、10倍ではありません。

銅が欲しい日本としては、大銭を輸入する事は赤字になるだけなので敬遠して輸入しなかったのです。

 

北宋の滅亡が宋銭輸入に拍車を掛けた

洛陽城

 

しかし、日本がいかに銅を欲しがっても中国が銅銭を輸出しなければそれは成立しません。

中国王朝はどうして、宋銭を積極的に海外に流したのでしょうか?

その大きな契機は西暦1126年の靖康(せいこう)の変による北宋(ほくそう)の滅亡でした。

三国志のモブ 反乱

 

宋王朝は中国歴代王朝で最も銅銭を発行した王朝であり、あまりにも大量の銅銭を鋳造したので銅銭の価値が銅そのものの価値よりも低下し、

その時代には宋銭を鋳潰して銅に変える事が頻繁に行われています。

また、金によって華北を奪われた南宋は宋銭を鋳潰して銅資源にして輸出する事が産業になっていたようです。

 

一方で華北を平定した金も開封を占領した際に、1000億枚という莫大な宋銭を獲得しました。

これは、北宋が150年で発行した宋銭の30%になり、他の都市でも多量の宋銭を得ています。

金では、こうして宋銭がダブつき、直接・間接的に日本への流入が加速したのです。

平清盛 鎌倉幕府

 

平安末期は、伊勢平氏が日宋貿易を背景に勢力を伸ばした時期であり、その代表者が平清盛でした。

こうして平氏は貿易を盛んにし、宋銭は日本に流入して供給が満ち通貨としての価値も持ち始めるのです。

 

朝廷が宋銭を敵対視した理由とは?

 

宋銭が日本に大量流入する前、日本における法廷貨幣は絹でした。

絹は沽価法(こかほう)により主要な商品との換算率が定められ、商品そのものが法定貨幣の性質を帯びていました。

絹が通貨というと現代から見ると奇異な感じがしますが、貨幣とは経年劣化が少なく、持ち運びに便利で誰でも価値を見出せるなら

どんな商品でもなり得ます。

 

例えば、終戦直後の沖縄では、貨幣経済が崩壊していたのでタバコが貨幣の代わりに流通していた事があります。

12世紀の日本では、納税は法定通貨の絹によって行われていたのですが、そこに渡来銭として宋銭が流入して数を増やし

法定貨幣の地位を確立すると、相対的に絹の価値が低下します。

 

それは絹で税金を徴収している朝廷にとって、税収の減収を意味するので、当然、宋銭を敵対視するのです。

ところが隆盛を極める平家が日宋貿易を拡大する中で、朝廷が宋銭を拒否するのは困難な状態でした。

平清盛(たいらのきよもり)が亡くなって平家が滅び、宋銭の輸入に理解があった後白河法皇が崩御すると、政権を握った鎌倉幕府と朝廷は共同して

1193年銭貨禁令を出します。

 

しかし、1210年、金王朝は国内における銭貨使用を禁じて、紙幣を中心とする通貨制度を実施すると日本に流入する宋銭の量は最大に到達、

朝廷も幕府も抵抗を諦め、1226年に幕府は銭貨を認めるのです。

こうして、朝廷と幕府が公認した宋銭は法定通貨の地位を確立、銅としての価値よりも通貨としての価値が上回るようになるのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

 

当初、日本の銅資源の枯渇と仏教ブームによる仏具・仏像に対する需要、そして中国では王朝交代と

多量の宋銭が余った事による価値の下落が相まって、銅資源として輸入された宋銭。

ところが莫大な宋銭は、やがて絹を抑えて法定貨幣の地位を確立し長期に渡り絹を法定通貨としてきた朝廷や幕府もこれを認めてしまう事になるです。

 

参考文献:日本史に学ぶマネーの論理 飯田泰之

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

 

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