徐庶にはどんな逸話があるの?

2019年10月18日


 

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徐庶

 

劉備(りゅうび)曹操(そうそう)に仕えた徐庶(じょしょ
)

徐庶は資料があまり豊富ではない為、どのような逸話があるのか知っている方は少ないと思います。

徐庶の逸話を知ることで彼の性格や考え方等が読み取れるようになりますので、彼の逸話についてご紹介したいと思います。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徐庶の逸話:名前が違う!?

剣を持って戦う徐庶

 

実は徐庶という名前は彼が後につけた名前で、もともとの名前は徐福(じょふく
)
と言います。徐庶よりも徐福の方が優しそうな感じがしませんか。ここでは徐福だとややこしくなるため、徐庶で名前を統一していきたいと思います。どうして徐福から徐庶に名前を変えたのでしょうか。

 

名前を変えたのは心を入れ替えて勉学に励むため!!

ヤンキー

 

皆様は若い頃ヤンキーやヤクザ者の任侠伝とかに憧れたことはありませんか。

 

徐庶は若い頃、ヤクザに憧れていたそうです。そのため徐庶は撃剣を習ってかなりの使い手として知られていました。撃剣の使い手徐庶は、人に雇われて仇討ちをしますが、役人にバレてしまいます。

 

徐庶は役人に捕まらないため、顔に白土を塗って、髪を振り乱して逃亡しますが、役人に捕まってしまうのでした。その後徐庶は仲間によって救助されたことで解放されます。

 

徐庶は解放されますが、役人に捕まったことで大きく心情が変化し、心を入れ替えて学問を学ぶ決意をし、塾へ通います。ですが、塾の学生たちは徐庶が以前ヤクザもので捕まった事がある事を知っており、徐庶と付き合おうとする人物はいませんでした。

 

徐庶はそこで名前を変えて謙虚な態度を取り、朝早く起きて一人で掃除をして、人の気持ちを良く汲んで行動しながら、勉学に励んだそうです。この結果、学友の中から彼を見直し付き合ってくれる友達が次第に増えていくことになります。

 

徐庶の逸話の中でも素晴らしい逸話の一つだとレンは思います。皆様は彼のこの逸話どのように思いますか。

 

臥竜を薦めた人物

劉備の元から離れたくない徐庶

 

他にも徐庶には逸話があるので紹介したいと思います。徐庶は劉備が荊州・新野に駐屯していることを知り、彼に会いに行きます。劉備は徐庶が来ると彼と会見。徐庶は劉備へ「私は臥竜と呼ばれる優れた人物を知っています。

 

この人の名前は諸葛孔明というのですが、将軍はこの人物に会いたいと思いますか。」と質問。劉備は「君。その人物を連れてきてくれないか。」と徐庶に諸葛孔明を連れてくるようにお願いします。

 

すると徐庶は「将軍。残念ですが、この人物は無理に連れてくることはできません。将軍自ら彼を訪ねればお会いすることができるでしょう。」と述べます。劉備は徐庶のアドバイスを聞いて諸葛孔明を尋ねることになります。

 

劉備は徐庶から諸葛孔明の名前を聞く前に司馬徽(しばき)からも聞いていました。ですが、劉備が司馬徽の意見を聞いて、諸葛孔明の元を訪ねようとしたとは正史三国志に記載されていません。

 

3000人の配下で孔明の庵を包囲する武闘派な劉備

 

そのため徐庶のアドバイスがあって、劉備が諸葛孔明の元を訪れようと決意したことがうかがえます。もしこの時、徐庶が劉備のもとを訪ねていかなければ諸葛孔明が劉備の配下として加わることなく、草廬で一生を過ごしていたかもしれません。

 

竹中半兵衛(軍師

 

そうなれば「三顧の礼」の諺が出来ず、日本の戦国時代、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)竹中半兵衛(たけなかはんべい
)
重治を配下に加えるシーンでこの言葉を使うことができず、ほかの言葉で代用されていたかもしれません。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

徐庶は諸葛孔明と一緒に劉備へ仕えますが、その後劉備のもとを離れて曹操の元に仕えることになります。

 

曹操にヘッドハンティングされる徐庶

 

どうして劉備のもとを離れて曹操に仕えたのか。その理由は曹操が荊州を奪った後、劉備軍を討伐するために追撃を開始。劉備は曹操軍の追撃から逃げきることに成功しますが、徐庶の母親が曹操軍に捕まってしまいます。

 

徐庶は母親を見捨てず、劉備の元を去って曹操に仕えることになるのです。この点も徐庶の逸話の一つとして数えることができるでしょう。やくざ者であったが心を入れ替えて勉学に励み、母親を見捨てなかった孝行息子・徐庶の逸話を紹介しました。

 

■参考文献 正史三国志蜀書など

 

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徐庶特集

 

 

 

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