司馬徽(しばき)はどんな人?なんでも善きかな、生涯誰にも仕えなかった偉人

2017年11月13日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

司馬徽(しばき)は、水鏡(すいきょう)先生というあだ名で有名です。

三国志演義では、壇渓で的盧のお陰で難を逃れた頃の劉備(りゅうび)の前に出現、

「伏龍(ふくりゅう:孔明)と鳳雛(ほうすう:龐統

一人でも得られれば天下を取れる」と予言めいた事を言う隠者として登場します。

まぁ、劉備は両方とも手に入れたのに、天下を取れなかったので、

「あの野郎につかまされた!」と怒っているかも知れませんが(苦笑)

そんな司馬徽、実は、ちゃんと歴史に登場する破天荒な人でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本当はお爺さんではなかった?意外に若い司馬徽(しばき)

 

司馬徽徳操(しばき・とくそう:173~208年)は、

豫州潁川郡陽翟(よしゅう・えいせんぐん・ようてき)の出身で、

ここは荀彧(じゅんいく)荀攸(じゅんゆう)郭嘉(かくか)も出ている

名立たる軍師の産地でした。

 

司馬徽は、荊州の名士である龐徳公(ほうとくこう)と非常に仲が良く、

後には司馬徽が引っ越してきて、襄陽の魚梁洲にあった龐徳公の住まいの

川の向かいに住んで、舟を浮かべて往来したり、水位が低い時には、

着物の裾を捲り歩いて訪ねてきたりしたそうです。

 

司馬徽は、貧しさを苦にせず、清廉で優雅な雰囲気があり、

また、物事の本質を即座に見抜く才能を持っていました。

龐統伝では、司馬徽は龐徳公より10歳年下であり、

龐徳公を敬って、龐公と呼んでいました。

 

龐徳公は、西暦163年の生まれなので、

それが正しいなら、司馬徽は173年の生まれという話になります。

そうなると、劉備より10歳若く、孔明より8歳年長なだけです。

劉備と会った207年には、34歳という事になり、

三国志演義のような、お爺さんでは無かったという事になるのです。

 



実はポンコツ?人物鑑定家なのに鑑定しない司馬徽

 

そんな司馬徽は、物事の本質を見抜くとされ、人物鑑定家として有名でした。

今風に言えば、インフルエンサーで司馬徽に評価されれば出世できると

色々な人が司馬徽を訪ねますが、司馬徽は、何の判断も下さず

なにを聞かれても「それは善きかな」と言うばかりでした。

それを見ていた妻が、

「あなたは誰が来ても、善きかなと言うばかり

皆さんは、あなたに人を見る目があると思って、訪ねてくるのに、

それではあんまりではないですか?」と苦情を言うと、

 

「あなたがおっしゃる事も、また善きかな」と答えました。

ここだけ聞くと、司馬徽はポンコツ疑惑が出てきますが、

本当は、判断を下す事で評判が増し、どこかの群雄が召集する事を

恐れて、保身の為にポンコツのフリをしていたようです。

 

その証拠として、207年に劉備が司馬徽を訪ねて、

これからの時代はどうなりましょうか?と尋ねると

「儒者や俗人どもに一時代の大仕事が理解できましょうか?

時代の仕事を理解しているのは俊傑です

この辺りには、伏龍と鳳雛がおりますぞ」と答えています。

 

つまり、劉備がタダモノではないと見抜いたから、

司馬徽は、このようなアドバイスをしたのです。

普段、善きかな、善きかな、と対応している人間は、

皆、取るに足りず、まともに相手にしていないのでした。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

16歳の龐統が司馬徽に問答を挑んだ

 

まだ司馬徽が故郷の豫州潁川郡陽翟にいた、西暦195年、

16歳の龐統(ほうとう)は、叔父の龐徳公に言われて二千里の遠路を

馬車で司馬徽に会いに行った事があります。

 

その時、司馬徽は、木の上に上り、桑の葉を摘んでいました。

当時、桑の葉を摘むのは、女、子供の仕事であり、士大夫の

やる仕事ではありませんでした。

 

生意気盛りの龐統は、司馬徽を大した事がないヤツと侮り

馬車からも下りずに、言いました。

 

「男子たるもの、この世に生まれたからには、

金印、紫綬(高級役人が持つアイテム)を帯びねばならぬと私は聞いています

あんたは、どうして立派な器量があるのに、それを隠して、

糸紡ぎなどという女の仕事をしているのか?」

 

すると司馬徽も、木から下りようともせず言いました

 

「君が、龐士元かね? まずは車から降りなさい

君は直進する速さだけは知っているが、その為に道に迷う危険を御存じない。

昔、伯成(はくせい)は田畑を耕して諸侯の栄誉を求めず、原憲(げんけん)は

桑や枢(やまにれ)を邸宅と交換しようとはしなかった。

どうして、豪勢な屋敷に住み、肥えた馬に跨り、数十人の婦女を侍らせねば

満足できぬという事があろう。

それこそが許父(きょふ)の慷慨し、白夷(はくい)・叔(しゅくせい)の

嘆息した理由なのだよ。

例え、秦の爵位と千乗の馬車を盗んだとしても尊ぶには当たらない!」

 

それを聞いた龐統は、誠に司馬徽が智者であると知り車を降りて

 

「私は、田舎の地から出てきて、ようやく大義を知りました

一度も大鐘、雷鼓を打ち鳴らさねば、その音響が分からないのと同じなのです」

 

そう言って、司馬徽は木の上、龐統は木の下で昼から夜になるまで語り合い

司馬徽は嘆息して、

「龐徳公は誠に人物を知っておられる、この若者は実に立派な仁徳者だ

南方の人士でも頂点に立つだろう」と言いました。

 

容姿が優れておらず、ぼんやりしていた龐統の名前が、

知られ始めたのは、この司馬徽の感想が元だそうです。

 

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荊州に居ついてからは、学問所を開いて人材を育てる

 

荊州の襄陽に引っ越してからの司馬徽は、学問所を開いて古文を教えました。

その門弟には、徐庶(じょしょ)韓嵩(かんすう)、龐統、向朗(しょうろう)

尹黙(いんもく)、李仁(りじん)がいます。

いずれも一角の人物となり、蜀や魏で活躍しました。

当時の荊州の支配者は、劉表(りゅうひょう)でしたが、司馬徽は、

劉表は愚かさゆえに善人を殺すであろうと見て、口を閉ざして

他人と議論をしませんでした。

 

ある人が劉表に

「司馬徳操は奇才の士ですが、まだ誰からも、招かれておりません」と告げると

劉表は司馬徽を訪ねて会ってみますが、

やはり、「善きかな、善きかな」で、まるで受け答えになりませんでした。

劉表は失望し「世間の声は当てにはならぬ、あれはただの書生だ」と言い、

結局、採用しませんでした。

このように、司馬徽は巧みに、バカを装っていたのです。

 

荊州陥落後、曹操が召出そうとするが間も無く病死する

 

こうして、バカを装い、悠悠自適な生活を送っていた司馬徽の元に、

今度は、劉表の息子の劉琮(りゅうそう)が訪ねてきました。

その時、司馬徽は野良着を着て、土にまみれて畑を耕していましたが、

そこに劉琮の側近がやってきて、司馬徽に尋ねます。

 

「おい、農夫、司馬君は御在宅か?」

 

司馬徽「はい、私がそうで御座いますよ」

 

それを聞いた側近は、農夫にからかわれたと思い腹を立てました。

 

「このくたばり損ないめが!!

将軍とお歴々は司馬君に会いたいのだ、

どうして、お前如きが司馬君の名前を騙るのか?

司馬君のご尊名を汚すんじゃあない!!」

 

すると、司馬徽は野良仕事を中断して、自宅に入り髪を剃って

頭巾を被り、再び、側近の前に現れました。

 

あの農夫が本当に司馬徽だと知った側近はびっくり仰天、、

劉琮の所に飛んで行って、どうしましょう?と泣きつくと、劉琮は大慌てで

馬車から滑り降り、司馬徽の前で土下座して無礼を詫びました。

すると司馬徽は、

 

「あいや、そのような事はなさらないで下さい、私が申し訳なくなります。

私は自分で耕し食べている一農夫に過ぎません。

それが、なにか、エライように伝わり、将軍のお耳を汚しただけなのです」

 

司馬徽は、そう言うだけで、少しも怒りませんでした。

 

司馬徽の善きかなには、深い深い意味があった。

 

このように、司馬徽は罵倒されようが誤解されようが、

褒められようが、何でも、善きかなでした。

 

善きかな、善きかな、この司馬徽の言葉は、一見すると保身のための

事なかれ主義に見えますが、同時に、とても深い意味があります。

司馬徽がどれだけ優れた思想を持っていようと、

人間は自分の理解の範疇でしか、これを評価する事が出来ません。

 

だからこそ、司馬徽をタダモノではないと敬う人がいる一方で、

書生に過ぎないと評価しない人もいて、

中には農夫だと思って怒鳴りつける人もいます。

それを司馬徽が怒っても仕方が無いでしょう。

他人には、そのようにしか「見えない」のですから、、

 

司馬徽から見て、愚かな選択に見えても、その人が必死に考えて出した結論なら

それは善きかな、善きかな、、やがて、それを悔いて改めても、、

その分だけ成長したのだから、それもまた、善きかな、善きかな、、

 

司馬徽は、どこまでも人の意見を尊重し、口を挟まず、偉そうにせず、

その人がベストな選択をしたのだとニコニコしていたのです。

一体、私達は、他人に自分のイメージを押しつけて、それに反する行為をされると

勝手に怒ったり、憎んだりしますが、司馬徽は、それが傲慢である事を悟り

謙虚であり続け、心に波風を立てなかったのです。

 

曹操が荊州に侵攻、間も無く司馬徽も病死する

 

やがて、劉表が死去し、曹操(そうそう)の大軍が荊州に入ると司馬徽も捕まります。

曹操は司馬徽の価値を知っていて、大いに用いようとしますが、

その頃には、司馬徽は健康を害していました。

そして、ついに一度も出仕する事なく、35歳で生涯を閉じたのです。

 

 

司馬徽(しばき)はどんな人?なんでも善きかな、生涯誰にも仕えなかった偉人

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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