三国志には変わった風貌を持った人物が登場します。例えば益州を占領して蜀を建国した劉備。正史三国志によれば劉備は振り返ると自分で耳を見えるほど大きな耳を持った人物で、手を下げると膝まで届く人物だったそうです。
また三国志の一角・呉を建国した皇帝・孫権。彼もまた劉備と同じように変わった風貌の持ち主でした。
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三国志演義に登場する孫権の容姿は?
孫権は三国志演義によると、当時の中国人らしくない風貌の持ち主でした。孫権は「紫色の目(碧眼)をした人物」と異国人のような容姿で紹介されています。どうして孫権は上記のような容姿で紹介されたのでしょうか。
三国志演義には理由が記載されていない為、推測してみました。
碧眼だった理由とは?
孫権が碧眼だった理由はレンの推測になりますが、中国人と異国人との混血だったのではないでしょうか。
混血だった理由として孫権の父・孫堅は、揚州の出身だったことが挙げられます。揚州は山越族などの少数異民族が多くいる地域で、孫権が皇帝として呉を建国した時も存在していました。
更に孫堅の父親は正史三国志によると役人で、孫堅の母親も高貴な出身の人物だったとは描かれていない為、一般の人だった可能性が高いと思われます。そのため孫堅の父親もしくは母親が異民族の血を引いていたとすれば、孫堅も異民族の血を引いていた可能性があります。
そして孫堅が異民族の血を引いているのだと仮定すれば、孫堅の息子である孫権が碧眼だった可能性も考えられるのではないでしょうか。あくまでこれは三国志演義に登場する孫権の風貌(碧眼)であることに対するレンの予測になるのですが、上記の仮定があっているのだとすれば、孫権が碧眼だった可能性が十分にあったと思います。
正史三国志でも紫色の目をしていたの?
三国志の正史でも孫権は碧眼だったと描かれているのでしょうか。
まず正史三国志呉書・呉主伝の「江表伝」に孫権の風貌に関する記載がありますのでご紹介しましょう。「江表伝」によれば孫権は「顎が張って口が大きく、瞳にはキラキラした光があった」と書かれています。
また呉主伝に掲載されている「献帝春秋」には張遼が合肥の戦いで捕虜にした呉兵へ「今さっき紫髯(あかひげ)の将軍で背は高いが足の短く、馬術と弓術に優れた人物がいたがあれは誰だ」と質問。すると呉の兵士は「将軍様の言う通りです。あれが我らが主・孫権様です。」と答えます。
ここで紹介したように孫権は正史三国志によれば、口が大きくて目がキラキラしており、背が高く紫髯で短足と表現されておりますが、紫色の目をしているとは記載されておりませんでした。ここから分かることは孫権が紫色の目をした容姿が描かれているのは、三国志演義の物語中の創作で、史実では孫権の目の色が紫色じゃなかったと言うことになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は孫権の目の色についてご紹介しました。「火のない所に煙は立たぬ」と言う諺があります。この諺の意味はまったく根拠がなければうわさは立たないと言う意味です。三国志演義は正史三国志を参照にしながら、創作の物語りを織り込んだ歴史小説です。
そのため三国志演義が書かれた時代(明の時代)、江東に住んでいる人々の中に目の色が紫色の(碧眼)人々がいたのではないでしょうか。そして、目の色が紫色の江東人を見た三国志演義の作者(羅貫中達)が、孫権も江東出身の人物なので目の色を紫色(碧眼)にしてしまえば特徴的でいいんじゃないかって事で、孫権の目の色が紫色(碧眼)になったのかもしれませんね。
これはあくまでもレンの妄想と推測を織り交ぜたお話なので、ご了承ください。
参考文献:
正史三国志呉書
三国志武将辞典など
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