【仰天事実】劉備の蜀攻めは孫権との共同作戦だった!

2019年9月2日


 

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土いじりをする劉備

 

棚ボタで陶謙(とうけん)から引き継いだ徐州牧(じょしゅうぼく)の地位を呂布(りょふ)に追われてから、根無し草の傭兵(ようへい)隊長暮らしをしていた劉備(りゅうび)

そんな劉備が蜀を建国して三国の片隅を得た決定的な要因は、やはり、巴蜀(はしょく)を攻略して益州一国の主になったからでしょう。

孫権

 

しかし、この劉備の蜀攻め、本当は孫権(そんけん)との共同作戦だったとしたらなんだか色々、劉備への見方も変わってきますよね?

今回は、びっくり仰天、劉備と孫呉(そんご)が共闘していた事実について書きます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志呉書呉範伝に記された短い記述

呂岱(りょたい)

 

呉には呂岱(りょたい)という地味な武将がいます。

孫権の時代から仕えて、異民族討伐などで名を挙げた典型的な呉将ですが、西暦211年、孫権は呂岱に命じて、兵二千で漢中の張魯(ちょうろ)懐柔(かいじゅう)

漢興郡の寋城(けんじょう)に誘い出そうとしますが、張魯が思い切り怪しんで警戒し道を塞いだので懐柔は失敗しました。

 

え?それがどうした?って、いえいえ、ここからが問題なのです。

この呂岱、漢中の張魯に振られた帰りに白帝城に寄り道し、そこで意外に強い劉璋軍にボロボロにやられた劉備軍を目撃しているのです。

劉備の黒歴史

 

三国志呉書呉範伝には以下の記述があります。

 

呂岱従蜀還 遇之白帝 説備部衆離落 死亡且半 事必不克

 

意訳すると呂岱は、蜀から帰還する途中に白帝で劉備に遭遇した。

呂岱が説くには、劉備の部曲は半数が脱落、半数が死亡、これでは蜀攻めは失敗するでしょうと書いてあります。

 

白帝城で劉備と会っている呂岱、、これはただの偶然でしょうか?

そんなわけないですよね、その前には張魯を懐柔して漢中に入ろうとしていたわけですから、

これは、消極的ながら呉は劉備と共同作戦を取っていたと言えるのではないでしょうか?

 

 

 

法正の降伏勧告文書にも孫呉の影が

 

百歩譲って、孫呉と劉備は特に共同作戦を取っておらず、孫権は気まぐれに漢中を攻略させようとしたとしましょう。

ところが、劉備の配下であった法正も、劉璋への降伏文書によって劉備の背後には孫呉がいると匂わすような事を書いています。

 

今荊州道通 衆數十倍 孫車騎遣弟及李異甘寧等為其後継

正史三国志蜀書法正伝

三国志に出てくる海賊達と甘寧

 

こちらも意訳してみますと、今や荊州からの道は通じ、軍兵は数十倍車騎将軍孫権が弟(孫皎(そんこう))及び李異(りい)甘寧(かんねい)などを後続の軍として

攻めて来ていますと読む事が出来ます。

 

実際には、孫皎も李異も甘寧も蜀攻めには参加してなく、呂岱が白帝城に寄っただけですが、少なくとも、

孫呉の影が実際にちらちらしないと劉璋へのハッタリとしても通用しないでしょう。

劉備

 

また劉備も、盟友の孫権が曹操と戦っていてピンチなので、救援に向かいたい、つきましては兵力と兵糧を貸してくださいと

劉璋に催促(さいそく)し、怪しんだ劉璋に適当にあしらわれています。

消極的であったとしても、孫呉が劉備と共同作戦を敷いていたのは劉備と孫権の間の共通認識であったのです。

 

南蛮征伐特集

 

わざと敗北してみせて孫呉を撤退させた劉備

蜀の劉備

 

では、劉備と共同作戦を取るつもりだった孫呉は、どうして、途中で蜀から手を引いたのでしょうか?

 

それは、呂岱が白帝城でみた劉備の惨憺(さんたん)たる有様のせいでしょう。

「劉備の蜀取りは失敗しますから心配いりません」

呂岱は、このように言い孫権は信じてしまったのです。

 

「蜀取りに失敗したら劉備はオシマイだ。

帰ってきたら返り討ちにするか、領土の割譲を迫って、一生、我が呉で飼い殺しにして曹操に備えさせてやる」

呉の孫権は皇帝

 

孫権はそのように考えて、安心してしまったと推測します。

ところが、呂岱が見たボロボロの劉備軍は偽りの姿でした。

呂岱が退却すると、劉備は一気呵成(いっきかせい)に蜀攻めを本格化し荊州から、諸葛亮(しょかつりょう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)まで呼び寄せて

劉璋を攻め滅ぼしてしまうのです。

 

この時、占い師として有名だった呉範は呂岱とは逆に、劉備は二年以内に蜀を平定しますと告げています。

呉の孫権

 

孫権は怒り、「実際に劉備を見た呂岱が失敗すると言っているんだぞ!」と呉範を問い詰めますが、

呉範は「私が言っているのは天の法則、呂岱が見たのは人の判断に過ぎません」と自説を曲げませんでした。

 

 

劉備は情報遮断の為に龐統を戦死させた

龐統と的盧

 

はじ三では以前、龐統は実は呉のスパイだったという記事を載せました。

史実の龐統の本当の雇い主は魯粛(ろしゅく)であり、龐統は劉備に荊州四郡を返させる為に、劉備に蜀を取らせようと画策していたというのが、

そのあらすじです。

蜀のブサメン軍師、龐統は魯粛のスパイだった?劉備と龐統、仮面主従の真実

しかし、劉備にとっては龐統から本当は劉備軍はピンピンしていますと魯粛に書き送られたら、マズい状態にありました。

欲深い孫権のこと、魯粛から本当の事を聞けば、また軍を派遣して蜀を平定したら半分くらい孫呉に分けろやと言い出すかも知れません。

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

なにしろ、蜀を取る前の劉備軍は曹操と対抗できないにはもちろん孫権にだってまったく太刀打ちできない、弱小傭兵団です。

例えるなら、大手コンビニ孫呉チェーンで仕事をさせてもらっているフランチャイズの店長みたいなものです。

孫権の機嫌(きげん)次第で、近くに同系列のコンビニ店舗を建てられたらゆっくりと売上が減り、上納金が支払えずに夜逃げという立場です。

法正

 

そうなる前に、()えて龐統を激戦地に送り込んで流れ矢で戦死させ、口を封じて蜀を独り占めし雇われ店長から卒業、なんて事も考えられそうです。

もしかして、その入れ知恵は法正(ほうせい)がやってたりして・・

そうだとしたら、劉備が法正を重んじる事、尋常(じんじょう)ではないという理由もちょっとわかるような気がします。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

史実の三国志は演義のそれに劣らず、それ以上に虚々実々(きょきょじつじつ)(だま)し合いです。

やはり、戦乱の世で最期まで生き残るような英傑は、一秒たりともぼーっと生きてなく、常に現在の為、将来の為に無数の策を弄していたんでしょうね。

劉備にしたって、本当に安らげたのは白帝城で人生を終えるまでの数か月だったかも知れません。

 

参考文献:正史三国志蜀書先主伝 同蜀書法正伝、

正史三国志呉書呂岱伝 同呉書呉範伝

 

こちらの記事を読んで、読者の皆さんはどんな感想を持ちましたか?

龐統を劉備が殺したなんて考えすぎ?いや、有りうる、どちらでも構いません。

コメント欄から、ドシドシご意見を下さい。

 

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