蜀錦を益州ブランドにした諸葛亮の販売戦略


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三国志のモブ 反乱

 

魏呉蜀(ぎごしょく)が並立した三国時代は、もちろん戦争の絶えない時代でしたが、それは、三国の完全な断絶を意味したわけではありませんでした。

三国には、それぞれ不足する物資があり、これを補う為に商人が三国を出入りし交易は活発に行われていたのです。

兵糧を運ぶ兵士

 

中でも劉備(りゅうび)の蜀は、特産品の蜀錦(しょくきん)を大々的に売り出した事が分かっています。

今回は蜀の特産品、蜀錦がいかに蜀の財源になったかを考えてみます。

 

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蜀錦とは何?

洛陽城

 

蜀錦は蜀江錦(しょくこうきん)とも呼ばれ、古くは戦国時代にまで遡る四川省成都で生まれた絹織物(きぬおりもの)です。

特徴としては、縦糸で色、横糸で模様をつける点があり、方形や線形、幾何学模様や対称形のデザインが多く色彩は(あで)やかで

コントラストが強く漢民族文化と益州の地方色が融合しています。

成都は別名「錦官城(きんかんじょう)」と呼ばれていて、漢王朝は専門の役人を送り絹織を管理していたようです。

つまり、劉備が劉璋(りゅうしょう)を降して蜀を制圧した頃には蜀錦はすでにありました。


蜀の国力は貧弱で蜀錦増産に頼るしかない?

病気になった兵士

 

華陽国志によると後漢末の建安19年(西暦214年)劉備が成都を占領した時、諸葛亮以下の功臣に銀・銭の外に錦を万匹下賜したという記述があります。

下賜品に出来るくらいなので、当時から蜀では大量の蜀錦が織られていた証拠と言えます。

しかし、後漢時代、まだまだ蜀錦は全国に名前が轟くほどの存在ではなかったようです。

張飛と劉備

 

そんな蜀錦が、どうして無形文化財になるほどに著名になったのかというと、ここにも天下の名軍師諸葛亮が関与していました。

魏や呉に比べて貧弱な蜀の財政を何とかすべく孔明は蜀錦に目をつけたのです。

蜀中広記(しょくちゅうこうき)には諸葛亮の軍令に()うとして「軍中之需全籍於錦」とあり、蜀軍の軍事費が蜀錦で(まかな)われている事が書かれています。

一生懸命に蜀錦を販売した利益で北伐軍の軍費は賄われていたのです。

兵士 朝まで三国志

 

また諸葛亮集によれば、孔明の言葉として

 

今民貧國虚 決敵之資唯仰錦耳

疫病が蔓延している村と民人

 

意訳:蜀の人民は貧しく虚脱状態であり、敵と戦うには、ひたすら蜀錦の力を仰ぐより無し

等と記録されており、蜀錦に頼るしかない悲壮な決意がつづられています。

 

激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

ビジネス三国志


諸葛亮のPR大作戦、魏と呉に蜀錦を売りまくれ

生姜を買ってくる左慈と曹操

 

そこで、孔明が考えたのが蜀錦のPR大作戦でした。

具体的には、蜀の使者が魏呉に使いする時に贈物として蜀錦を持参させたのです。

この方法は功を奏したようで、例えば、後漢書の左慈(さじ)伝では、曹操が左慈に「蜀に錦を買いに使いを出したが二反買い増しするように」と

頼んだという文言があり、また、曹操が亡くなった時に、劉備が韓冉を弔使に遣わし蜀錦を贈った事が書かれています。

蜀の皇帝に即位した劉備

 

また、劉備は朝聘酬報(ちょうへいしゅうほう)において、各地の異民族の諸侯が朝見にやってきた時に積極的に下賜品として蜀錦を与えている事が釋繪(えきかい)にあります。

こうした諸侯に蜀錦を贈る事は、PR効果が大きく、次第に蜀錦の需要が増え魏や呉からも能動的に直接買い付けが起きるようになりました。

 

南北朝の劉宋の山謙之(さんけんし)による丹陽記には、

 

歴代尚未有錦(れきしをみるといまだにしきをみない) 而成都独称妙(しかれどもせいとだけにはある) 故三国時(これはさんごくじだい) 魏則市於蜀(ぎではしょくのにしきに市がたち) 呉亦資西蜀(ごではしょくににしきをもとめためだ)

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

このように記され蜀の錦が魏の市場に並び、呉もまた蜀錦を輸入していた事が記録されています。


曹丕が蜀錦の粗悪品を掴まされた!

撃剣を使う曹丕

 

しかし、諸葛亮の音頭取りで増産が進んだ蜀錦は、下賜品(かしひん)は兎も角として民間の錦は、まだまだ商品としては粗悪な品が多かったようです。

特に魏や呉が大量に蜀錦を輸入するようになると、粗悪品が大量に混じり魏の文帝曹丕は、與郡臣諭蜀錦書(よぐんしんゆしょくきんしょ)という(みことのり)で、

 

毎回、蜀錦がやってくるが、ことごとく品質が悪い事を怪しんでいる。

まず錦の表面があざやかでなく、田舎くさいデザインで(ちん)の好みに合わない。

そもそも蜀の如意虎頭連璧錦(にょいことうれんぺききん)などは、中原の織法(しょくほう)を真似ただけのコピー品だし、

有金薄(ゆうきんふ)蜀薄(しょくふ)に至っては、全くヒドイ出来だ。

蜀錦などと言っても、名前があるだけで実力が伴わない。

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

いかにも曹丕が言いそうなボロクソな物言いですが、このような悪口を言われながらも、蜀錦は次第に特産品になり、

諸葛亮の北伐を支え、乏しい蜀の経済を支える存在になったのです。

 

蜀漢の関与で品質を向上させた蜀錦

張飛のパワハラに怯える張達と范彊

 

三国蜀の都の成都では、市内に集合的に数多くの機房が存在し民営による生産が行われました。

劉備政権はそこに目をつけて生産流通の過程で何らかの干渉を行い、蜀錦業者の利益を搾取(さくしゅ)していたようです。

パワハラをする張飛

 

このように書くと成都の機織(はたおり)業者が気の毒ですが、劉備政権もより蜀錦の価値を高める為の技術指導や品質向上も

同時に行っていた事でしょうし生産規模を拡大する為の投資も積極的になされた事だと思います。

蜀漢の時代に蜀錦は、その品質を飛躍的に高めたとも言えるのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

戦国時代より存在した蜀錦は、乏しい蜀漢政権の財源を探していた諸葛亮により軍事費を賄う特産品として蜀漢の生命線と位置づけされました。

そして、涙ぐましいPR大作戦と粗悪品との戦いを続けながら、蜀錦を一大特産品にまで育てあげる事に成功したのです。

三国志演義では、天才軍師扱いの孔明ですが、実際には政治家でもあり特産品の蜀錦をメジャーに押し上げる名プロデューサーでもあったわけですね。

 

読者の皆さんは、蜀錦を中国の一大ブランドに押し上げた諸葛亮の手腕をどう思いましたか?

 

参考文献:唐末までの蜀錦の生産 中山八郎

 

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