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えっ?劉璋は若い頃かなり気性が荒かった?

2018年3月31日


 

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劉璋

 

 

三国志においては安定のボンクラぶりを発揮している益州牧、劉璋(りゅうしょう)。そのダサさ加減は、自分より格下の張魯(ちょうろ)を怖れる余りに劉備(りゅうび)を招き入れるという本末転倒ぶりを演じるレベルでした。しかし、これは晩年の話で若い頃の劉璋は結構有能で気性の荒い人だったのです。今回は知られざるヤング劉璋の逸話を紹介しましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若い頃は兄弟と共に長安にいた劉璋

長安

 

劉璋は字を季玉(きぎょく)と言い、劉焉(りゅうえん)の末っ子として誕生しました。父の劉焉は、後漢が崩壊する事を見越して自分で志願して益州に向かい、地盤を広げていきましたが、息子たちは三男の劉瑁(りゅうぼう)以外洛陽に残っていました。

 

董卓

 

その後、董卓(とうたく)が洛陽を支配すると劉焉に頭を下げるように命じますが劉焉はこれを黙殺してやってきませんでした。これにより、洛陽に置き去りの劉焉の息子たち、劉範(りゅうはん)劉誕(りゅうたん)劉璋(りゅうしょう)の立場は悪くなります。ただ、今後の事を考えたのか董卓は3人を殺さずに手元に置いておき長安遷都後は本拠地の郿塢(びう)に放り込んで獄に繋いでいました。

 

董卓

 

192年、董卓が呂布(りょふ)に殺されると、三兄弟は開放される事になります。3名は奉車都尉(ほうしゃとい)という献帝を守る地位になりますが、間もなく呂布と王允(おういん)の政権は崩壊し長安は李傕(りかく)郭汜(かくし)の支配下に入りました。しかし、劉誕、劉範、劉璋は殺される事なく、そのまま献帝に仕えます。

 

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運命の分岐点 父を説得する為に益州に向かい拘留される

劉表

 

益州で劉焉は五斗米道の張魯を傘下に加えて勢力を伸ばしていきます。こうして、張魯(ちょうろ)に命じて漢中から中央に繋がる橋を焼き落とし官吏を殺しました。劉焉は奢って、超デラックスな馬車を千乗作成するなど威勢を示しいよいよ後漢王朝に対して独立志向を強めてきました。

 

これを荊州の劉表(りゅうひょう)献帝(けんてい)に告げ口します。

 

劉君郎(りゅうくんろう)は益州で天子気取りです、放置すれば厄介な事になりましょう」

 

さっすが!同じ漢の王族の末裔(まつえい)同士、安定の仲の悪さですね。

 

そういう事なので事態を重く見た献帝は、「息子が説得すれば劉焉も言う事を聞くだろう」と末っ子の劉璋を説得に向かわせる事にしたのです。劉璋は献帝の要請で馬車に乗り、遥々益州に向かいます。これが、劉璋と他の兄弟達との命運を分けました。

 

馬騰

 

194年3月、征西将軍馬騰(ばとう)李傕(りかく)と不仲になり叛き劉誕・劉範は馬騰に組します。反乱計画は途中で漏れて失敗し、馬騰は西涼に逃げていきますが、逃げる場所がない劉範と劉誕は報復に燃える李傕に捕えられ処刑されました。もし、劉璋が長安に残っていれば李傕につかない限り死は免れなかったでしょう。

 

北伐の真実に迫る

北伐

 

 

不幸が続いて病気になった劉焉は死去、劉璋は趙韙に擁立される

 

劉璋は劉焉の病気見舞いを口実に益州に入りますが、一人でも肉親が欲しい劉焉はこれ幸いと劉璋を拘留して長安に帰しませんでした。劉璋にとっては、これが馬騰の兵乱を逃れ益州牧になる重大な契機になります。

 

イケイケだった劉焉ですが老いと落雷によって本拠地の綿竹が焼けたり息子たちが馬騰の反乱に連座して死んだなどで精神的なショックを受けます。やがて、背中に悪性の腫瘍(しゅよう)が出来た劉焉は非業の最期を遂げました。劉焉は後継者を定めなかったようですが重臣の趙韙(ちょうい)は劉璋がボンクラで操縦しやすそうに見えた為に、後継者争いで主導権を握り献帝に上奏して劉璋を後継者にしたのです。

 

 

 

劉表を放逐して何とか支配を安定させたい劉璋

 

益州の支配が劉焉から劉璋に代わると隙を突こうとした劉表は、荊州別駕の劉闔(りゅうがい)を使って、劉璋に不満を持つ諸勢力を叛かせて益州を手に入れようと画策しました。そして劉璋の将軍の沈彌(ちんや)婁発(ろうはつ)甘寧(かんねい)を反かせ劉璋を撃ったものの意外に劉璋を支持する勢力が多く、敗れて敗走して荊州に入ります。なんとか劉表の攻撃を凌いだ劉璋は、李傕に使者を送って接近し、益州牧の地位を認めてもらい劉表討伐の命令まで手に入れるのです。

 

 

 

こうして、劉璋は逆に荊州を併呑しようと趙韙を出兵させます。趙韙は、荊州領内に侵攻し、朐䏰(くじん)に駐屯し、西暦200年前後まで劉表と血みどろの抗争を続けます。晩年は遊んでいるだけの劉璋ですが初期はアグレッシブですね。後年の肥満したおだやかオジサンとはイメージが違います。

 

 

劉表との抗争と趙韙の粛清で益州が斜陽に・・

劉璋

 

しかし、趙韙は荊州の攻略にてこずり戦果を挙げられませんでした。これで、劉璋は趙韙に失望して処分する事を考え始めます。その頃、益州内部では長年続く兵乱に住民が劉璋を恨み不満が高まっていました。趙韙は、これを利用し民衆の不満を背景にし、無断で劉表と和睦して成都まで攻め上ってきました、やられる前にやれ、つまりクーデターです。

 

びっくりした劉璋ですが、まだツキは劉璋にありました。劉焉が益州制圧の為に組織した流れ者の混成部隊の東州兵が劉璋を支持し趙韙に叛いたのです。こうして趙韙は次第に不利になり部下の龐楽(ほうらく)李異(りい)に叛かれ殺害されました。かくして、ようやく支配の安定を見た劉璋ですが、東州兵に頼り切った為に東州兵は増長して略奪行為を繰り返すようになります。これにより人心はさらに劉璋から離れるようになりました。

張魯

 

おまけに、劉表と喧嘩している間に漢中の子分の張魯が急成長して劉璋の命令を無視するようになったのです。腹を立てた劉璋は成都にいた張魯の母と弟を殺害し張魯との関係は修復不可能な状態に陥ります。劉璋は龐羲(ほうぎ)に張魯を攻めさせますが、龐羲の軍事的な才能は趙韙以下で度々張魯に敗れたので、劉璋は防戦に転じる事になります。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

もう、お分かりですね、ここから劉璋は張魯の影に怯え曹操(そうそう)を頼ったり劉備を頼ったりする優柔不断なボンクラ君主にレベルアップするのです。つまり、益州は最初から弱かったわけではなく、劉表との抗争、趙韙との抗争が起こり、随分弱体化していたのです。元々は、事なかれ主義ではなかった劉璋は、益州を巡る抗争に疲れ、ああいうボンクラ君主にならざるを得なかったのでした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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