源平合戦というと戦国時代に次いで人気がある歴史ジャンルです。平治の乱で敗れた源義朝の遺児の源頼朝が平清盛に助命され弟の源義経等を従えて関東で勢力を拡大し平清盛亡き後の平家を追い詰めて最期には壇ノ浦で海の藻屑としてしまう展開は盛者必衰の言葉を想起させます。
しかし、いかにも源氏と平氏の全面対決に見えるこの戦い、実は源平だけの戦いでは無かったのです。
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この記事の目次
源頼朝に従った平氏
平家物語などを見ると、いかにも、源氏の棟梁の源頼朝と平家の棟梁平清盛の全面対決に見える戦いですが、現実には、源頼朝に味方した平氏の武将は大勢いました。元々関東は桓武平氏の平良文を祖として、下総、上総、武蔵、相模に根を張った坂東八平氏の力が強い地域でした。
例えば、千葉常胤、三浦義明、畠山重忠、江戸重長、梶原景時のような武将は皆、坂東八平氏です。教科書的には、北条時政のような平氏の武将しか描かれませんが、ところがどっこいなんですね。
平宗盛に従った源氏
逆に、平宗盛に従った源氏も、新田義重、佐竹秀義、源季貞等の名前が上ります。新田義重は、かの源義家の孫ですし、源季貞は清和源氏の流れを汲みながら平家の侍大将でした。平家についた源氏と言うと、平治の乱で義朝に愛想を尽かして清盛に寝返り、後年にまた源氏に復す源頼政が有名ですがそれだけではないのです。このように、平家も純粋に平家一門だけで固まっているわけではありません。
血縁よりも地縁を重視した武士
いかに平氏一門、源氏一門と言っても、共通の先祖は五代も六代も遠ざかっている事もあり、同じ平氏でもあった事もない赤の他人でした。それに、武士にとっては、自分が領有する土地を守る事が最優先であり、その意味で血縁よりも自身が住んでいる土地の地縁を重視する事が多かったのです。
具体的に言えば、自分の領地の周辺で源氏が強いなら源氏に、平氏が強いなら平氏に付くというのが、武士達の現実的な選択でした。最初に紹介した坂東八平氏が頼朝についたのも、河内源氏が関東で大きな力を持っていたからなのです。
平家に反旗を翻したのは源氏だけではない
平家物語を読んでいると、平家に反旗を翻しているのは源氏がメインのようですが、実際には違いました。それには、平家政権に抑えられた熊野勢力、興福寺、円城寺等の寺社勢力や、合戦前期には、北陸や九州で非源平の武士団も蜂起しています。例えば九州の菊池隆直等は、源氏でも平家でもありません。
そもそも、平清盛が属する伊勢平氏は、天皇や摂関家と結んで国政を牛耳り、元々17カ国だった平氏の知行は32カ国に倍増、日本の半分に達し平家の息が掛かった国主が赴任し在地豪族は退けられました。これを恨んでいる豪族は一人や二人ではなかったのです。
平家でない者は人間ではないというほどの平家の権勢は、ぶっちゃけ源氏でなくても、ほぼオールジャパンで嫌われ一触即発だったのです。また、源氏と言っても頼朝のような軍事貴族だけではない非軍事の貴族もいました。それらは、嵯峨源氏や、醍醐源氏、村上源氏であり、当時の源氏長者でしたが別に彼らは頼朝に連動して叛いたわけでもありません。
源頼朝だけが源氏の嫡流ではない
源頼朝と源義朝父子が源義家の血を引く源氏の嫡流という考え方も、実は鎌倉幕府が成立してから出来た結果論に過ぎません。河内源氏は、実際には複数の流れを持ち、単独の嫡流が存在しているわけではなく、源義家の後継者に正統性を限定しても源義仲や源義朝、義賢の弟の源行家も、先に紹介した新田義重もその地位を主張できるのです。
別に源氏は河内源氏だけではないわけで、たまたま源頼朝が同じ源氏のライバルを蹴散らして、鎌倉に幕府を開いたので、後世から嫡流だと認定されただけなのです。
平家が負けたのは貴族化だけが理由ではない
一般に源平合戦における平家の敗因は、平家が二十年の栄華で貴族化し、すっかり堕落した事が強調されがちですが、実際にはそれだけではありません。まず、反乱軍になった頼朝は朝廷に弓を引く形になったので、生き残りの為に革命的な事を始めました。それが朝廷の許しを得ずに、戦争で倒した相手の領地を没収し、さらに没収した土地を朝廷の許可なしに部下に分配してしまう事です。
これはある意味、朝廷の権威を否定する行為ですが、何を言われようと実力で奪った土地を守り、部下の領地を守るという頼朝のシステムは手柄を挙げれば恩賞として土地が貰える事を保障し士気を高めたのです。
しかし、京都を支配する平家は朝廷のシステムに則らないといけないので、利害関係の調整があり頼朝のように土地の大盤振る舞いは不可能でした。ただでさえ嫌われている上に、恩賞も少ないとなっては、いかに天皇の命令で各地の豪族に動員を掛けても動きが鈍いのは仕方なかったのです。
鎌倉時代ライターkawausoの独り言
このように従来の源平合戦という呼称では、実際の戦いの実相を見誤る可能性が高いので、現在では、当時の元号を取り、治承・寿永の乱と呼称するようになっています。本当の源平合戦は、決して平氏と源氏だけの全面対決ではなかったのです。
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