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甘寧の最期は・・・?
正史において、甘寧の生年、没年は分かってはいません。しかし丁奉伝などを見ると記述が残っているので、恐らくは217年付近までは生存していることが確認されます。しかし呉にとって大きな出来事である219年の関羽討伐時には既に甘寧の記述はなく、既に亡くなっているか、もしくは既に戦えるような状態ではなかったのではないかと思われます。
三国志演義での甘寧の最期
さて正史では関羽討伐時には既に没していた可能性のある甘寧ですが、三国志演義では夷陵の戦いに病床でありながら参戦、沙摩柯の矢に射られてその最期を迎えます。討ち死にでなかった武将が討ち死にさせられて死亡、というパターンですね。しかし三国志演義での他の武将たちの死に方を見ていくと、甘寧の最期を病死などにはせず、戦の場で散ったようにしたのはむしろ呉の武将たちの中では「良い扱い」をされている方というのは中々に興味深いところです。
夷陵の地と甘寧
最後にちょっと面白い繋がりをお話しましょう。甘寧は正史において何郡の曹仁と戦いますが、この際に甘寧が計略を立てたのは「夷陵の奪取」。見事夷陵を奪取しますが曹仁の兵に囲まれてしまいます。
しかしその包囲に何日も耐え続け、屈することなく戦い続けたとあります。この甘寧が三国志演義でとはいえ後に夷陵で討たれる……何だか「縁」を感じさせますね。
三国志ライター センのひとりごと
紆余曲折を経て呉に訪れ、そして退場していった武将の一人、甘寧。そんな甘寧が筆者に一番印象を与えたのは、三国志演義での1シーン。沙摩柯に射られて討ち死にすることになった甘寧は「これからも多くの武将たちが死んでいくのだろう」と最期に呟いて退場します……個人的にこの言葉は自分自身だけでなく、数多くの武将たちの未来を暗示したような三国志演義からのメッセージのように感じて、これを言わせたのは三国志演義の著者が甘寧を気に入っていたからかな、と思わせますね。
参考文献:呉書甘寧伝 呂蒙伝 程普伝 蜀書劉焉伝
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