今回見ていきたいのは呉の武将の一人、甘寧です。甘寧は呉の猛将の一人でもありますが、同時に頭も中々に切れる人物でもあるのが特徴ですね。正史では有名な赤壁の戦いよりも前に「天下二分の計」を進言したことで孫権に気に入られました。
しかしそんな甘寧はどんな経歴から孫呉に迎え入れられたのか?
そこで今回は赤壁の戦い以前の甘寧の経歴から、その生涯を見ていきたいと思います。
「甘寧 赤壁」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
甘寧・一念発起する
甘寧の生年について正史には記載はありませんが、生まれについては益州、巴郡臨江の人物だったとされています。そして甘寧は長いこと江賊、山賊の川バージョンで生計を立てていました。
しかし遂には劉璋により討伐されてしまいます。そこで甘寧はなんと、そこから勉学に励むようになるのです。これが後に天下二分を発案できる甘寧の頭脳の磨き始めになったのですね。
甘寧・主を変える
甘寧がまず主として仕えたのは劉表でしたが、ここでは甘寧は重用されませんでした。その後、甘寧は黄祖に仕えます。
ここで甘寧は呉軍と戦い、その際に凌操を討ち取るなどの功を挙げますが、それでも黄祖には用いられず、見かねた蘇飛によって色々と面倒を見てもらいます。しかし、結局黄祖からは冷遇され、蘇飛の勧めによって黄祖から離れることになります。
そして更にその後、甘寧は出奔して孫権に降ることとなります。呉の武将、甘寧の誕生です。
甘寧・天下二分の計を進言する
甘寧に孫権が期待をかけたきっかけは、天下二分の計を進言したことと言われています。が、その前に周瑜、呂蒙に連名で推挙されたことで孫権は既に今までの部下と同じように甘寧を大事にしていました。
それに応えるかのように甘寧が進言したのが天下二分の計です。この戦略眼から孫権は甘寧を認めるようになりました。後にかつての主であった黄祖を打ち破るのに活躍する甘寧、しかし嘗ての恩も忘れてはおらず、蘇飛の除名嘆願を涙ながらにやっている義侠心も見せています。
呉に甘寧あり
後に甘寧の名を有名にするのが濡須での戦い。この際に甘寧は曹操陣営に見事な夜襲をかけて、引き下がらせることに成功しました。夜襲隊の一人として死なせなかった手際と戦術を評価され、孫権は「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる」と称賛の言葉を送りました。合肥で張遼に辛酸を味わわせられた孫権からこのような言葉が出たと思うと、感動も一入。孫権の甘寧への評価の高さが窺い知れますね。
甘寧の最期は・・・?
正史において、甘寧の生年、没年は分かってはいません。しかし丁奉伝などを見ると記述が残っているので、恐らくは217年付近までは生存していることが確認されます。しかし呉にとって大きな出来事である219年の関羽討伐時には既に甘寧の記述はなく、既に亡くなっているか、もしくは既に戦えるような状態ではなかったのではないかと思われます。
三国志演義での甘寧の最期
さて正史では関羽討伐時には既に没していた可能性のある甘寧ですが、三国志演義では夷陵の戦いに病床でありながら参戦、沙摩柯の矢に射られてその最期を迎えます。討ち死にでなかった武将が討ち死にさせられて死亡、というパターンですね。しかし三国志演義での他の武将たちの死に方を見ていくと、甘寧の最期を病死などにはせず、戦の場で散ったようにしたのはむしろ呉の武将たちの中では「良い扱い」をされている方というのは中々に興味深いところです。
夷陵の地と甘寧
最後にちょっと面白い繋がりをお話しましょう。甘寧は正史において何郡の曹仁と戦いますが、この際に甘寧が計略を立てたのは「夷陵の奪取」。見事夷陵を奪取しますが曹仁の兵に囲まれてしまいます。
しかしその包囲に何日も耐え続け、屈することなく戦い続けたとあります。この甘寧が三国志演義でとはいえ後に夷陵で討たれる……何だか「縁」を感じさせますね。
三国志ライター センのひとりごと
紆余曲折を経て呉に訪れ、そして退場していった武将の一人、甘寧。そんな甘寧が筆者に一番印象を与えたのは、三国志演義での1シーン。沙摩柯に射られて討ち死にすることになった甘寧は「これからも多くの武将たちが死んでいくのだろう」と最期に呟いて退場します……個人的にこの言葉は自分自身だけでなく、数多くの武将たちの未来を暗示したような三国志演義からのメッセージのように感じて、これを言わせたのは三国志演義の著者が甘寧を気に入っていたからかな、と思わせますね。
参考文献:呉書甘寧伝 呂蒙伝 程普伝 蜀書劉焉伝
関連記事:甘寧の死因は討ち死に?それとも病死?
関連記事:甘寧は夷陵の戦いで戦死していなかった?呉武将甘寧と夷陵の戦いを解説


















