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この記事の目次
補給を繋ぐ名人夏侯淵
これも何気なく勝っているように見えますが、長安から祁山まで直線距離で380キロもあります。到着するまでには、ちゃんと補給が必要であり、夏侯淵は後続して張郃に兵站を繋いだのでしょう。
馬超が途中で敗走したのも兵糧がなく、氐羌数千を繋ぎ止められなかったせいかも知れません。だとすると逃げ出した氐羌は、そのまま張郃に付いてしまったのではないでしょうか?だからこそ、周辺もオセロのように張郃に靡いたとも考えられないでしょうか。
韓遂を手玉に取る活躍
次に夏侯淵は顕親の韓遂を討とうとし、韓遂は逃亡、夏侯淵は細かく韓遂から軍糧を回収し追って略陽城に至ります。そして、態勢を立て直した韓遂の軍勢と対峙しました。
勝ちに乗じている魏軍の幕僚は、韓遂を討つべしという意見と、近くの興国氐を撃つべしという意見に二分しますが、夏侯淵は
「韓遂軍は精強で手強く、興国城は堅城で容易に落ちない」と断じ、長離を攻めて韓遂をおびき出そうと言います。長離は羌の邑で、その多くは韓遂軍に参加していたからです。
果たして、夏侯淵が長離を攻め、自分は補給を守って襲撃に備えると、韓遂は故郷を救ってくれと嘆願する部下の羌を抑えられず、長距離を移動して夏侯淵の軍勢と対峙します。
そこで夏侯淵の諸将が塹壕を掘り塁壁を築いて戦いたいと言いますが、夏侯淵は「それでは疲労して長期は戦えない」と退けて、一気呵成に攻めて韓遂軍を撃破し軍旗を得ました。
補給を重視し勝ち進んだ夏侯淵
かくして、韓遂を降した夏侯淵は、さらに進軍して興国城を包囲、氐王千万は馬超の下に逃走し、それ以外の異民族はことごとく降ります。さらに夏侯淵が転戦して高平の屠各を撃つと皆な逃げ散り、夏侯淵はちゃっかり糧穀牛馬を収めたのです。
このように夏侯淵は常に補給を重視し、鹵獲品を収納し物資に乏しい涼州で抜群の安定感で、次々と異民族を降伏させていきました。三国志でも補給が難しくなり、戦に負けてしまうケースは多々ありますが夏侯淵はそれとは無縁だったのです。
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