夏侯淵とはどんな人?猛将の裏の顔は補給の達人


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夏侯淵とはどんな人(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操に自己に並ぶ戦上手と言われる

承諾する曹操

 

その後、夏侯淵は曹操の命令で、自ら河首平漢(かしゅへいかんおう)を号し30年以上も枹罕(ほうかん)に君臨していた宋建(そうけん)を諸将を率いて征伐に向かいます。夏侯淵は枹罕を攻囲し、1カ月余りで宋建やその丞相以下を斬りました。

 

荒れる黄河

 

夏侯淵は別働隊として、張郃らを派兵して河関を平定し、黄河(こうが
)
を渡って小湟中(しょうこうちゅう)に入らせ、河西(かせい)の諸羌を尽く降して隴右(ろうゆう)を平定しました。

炎上する城b(モブ)

 

曹操は布令を出し、

宋建(そうけん
)
が反逆してから三十余年、夏侯淵は一撃でこれを滅ぼし、関右を虎歩(こほ)して向かう所、敵無しであった。孔子(こうし)も言っている“吾か(なんじ)でなければ出来ない”と」

 

このように、曹操は夏侯淵の危なげない戦い方を賞賛し、このような戦い方は自分でなければ夏侯淵しか出来ないと言ったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

定軍山で黄忠に討たれた為、曹操にスタンドプレーはダメと言っただろうと死後のダメ出しを喰らう夏侯淵ですが、実際には漢中の兵力は少なく夏侯淵は少ない兵力を遣り繰りして、劉備軍を撃退していたというのが実際のようです。

 

赤鎧を身に着けた曹操

 

曹操も嘆きつつも、弔い合戦のように長安から陽平関まで進軍しているのですから、なんだかんだで夏侯淵を討たれた今、それに代わるのは自分しかないと思ったのでしょう。なんだか、関羽の()(とむらい)合戦をした劉備のようじゃないですか?

 

参考文献:正史三国志

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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