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曹操に自己に並ぶ戦上手と言われる
その後、夏侯淵は曹操の命令で、自ら河首平漢王を号し30年以上も枹罕に君臨していた宋建を諸将を率いて征伐に向かいます。夏侯淵は枹罕を攻囲し、1カ月余りで宋建やその丞相以下を斬りました。
夏侯淵は別働隊として、張郃らを派兵して河関を平定し、黄河を渡って小湟中に入らせ、河西の諸羌を尽く降して隴右を平定しました。
曹操は布令を出し、
「宋建が反逆してから三十余年、夏侯淵は一撃でこれを滅ぼし、関右を虎歩して向かう所、敵無しであった。孔子も言っている“吾か爾でなければ出来ない”と」
このように、曹操は夏侯淵の危なげない戦い方を賞賛し、このような戦い方は自分でなければ夏侯淵しか出来ないと言ったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
定軍山で黄忠に討たれた為、曹操にスタンドプレーはダメと言っただろうと死後のダメ出しを喰らう夏侯淵ですが、実際には漢中の兵力は少なく夏侯淵は少ない兵力を遣り繰りして、劉備軍を撃退していたというのが実際のようです。
曹操も嘆きつつも、弔い合戦のように長安から陽平関まで進軍しているのですから、なんだかんだで夏侯淵を討たれた今、それに代わるのは自分しかないと思ったのでしょう。なんだか、関羽の弔い合戦をした劉備のようじゃないですか?
参考文献:正史三国志
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