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孫権のお見舞い
呂蒙が病に倒れた時、孫権は非常に心配しました。しかし何度もお見舞いに行っては呂蒙が休まらないだろうと案じ、壁に穴を開けて呂蒙を見ていたと言います……正直、もっと気が休まらないと思うのは筆者だけでしょうか?
病気の時にお見舞いに来てもらえると嬉しいですが、その相手が孫権、つまり上司であり、下手をすると四六時中孔の向こうから見ているとなると……これも残念ながら呂蒙をストレスの海に沈めた一員なのかもしれません。
周瑜との関連性
さて呉の武将の一人、周瑜も実は死因がはっきりとしていません。しかし血を吐いて亡くなったことからストレス性の胃潰瘍であったのではと言われています。いついかなる時代であってもやはりそれなりの立場にある人間はストレスを感じるものなのでしょうか。
そして周瑜がストレス性胃潰瘍であったとするなら、呂蒙もまた同じ病気になっていてもおかしくはないでしょう。これもまた、呂蒙の死因の理由の一つに考えられると思います。
これらの要因から、やはり筆者は呂蒙の死は関羽の呪いではなく胃潰瘍であったのでは?と考えます。
呂蒙の死は予兆だった・・・?
三国志演義では関羽の呪いによって亡くなる呂蒙。また同時期に何人かの武将たちが亡くなっていますが、これは残念ながら「年齢」と言わざるを得ません。と言うのもこの時既に、黄巾の乱から出てきた武将たちは良い年齢に差し掛かっているのです。
タイミングよく亡くなったためにまるで関羽が道連れにしたように描かれることが多いですが、筆者はカッコいい関羽の方が好きなので、自分の死で他者を道連れにするような関羽はあまり想像したくありません……。
色々と終焉が近付いている、ということを感じさせる関羽と呂蒙の死ですが、三国志の終焉の一幕と考えると、何とも言葉にできないものがありますね。
三国志ライター センのひとりごと
呂蒙の死は、夷陵の戦いの前ということもあって三国志時代の終焉を感じさせます。考えてみれば黄巾の乱で旗揚げした武将たちは関羽を含めて良い年齢。時代の移り変わりを感じさせる瞬間です。その瞬間が関羽の死であり、また呂蒙の死と考えると……何だかこれからの蜀と呉を考えてしまいますね。
参考文献:呉書呂蒙伝
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