実は仕官しない方がお得?ジャンピングチャンスがあった人材登用

2020年5月18日


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実は仕官しない方がお得?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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とってもお得な辟召

魏延と孔明

 

辟召とは、五府の長、大傅(たいふ)大尉(たいい)司徒(しと)司空(しくう)、大将軍と九卿、州牧、州刺史が行える特別な人材登用制度で、出世の早道になるのは五府の辟召でした。辟召に挙げられた人材は、大傅府、大尉府、司徒府、司空府、大将軍府それぞれの属官になった後、高第(こうだい)に挙げられ侍御史(じぎょし)(600石)を経て、州刺史(しゅうしし)国相(こくしょう)、郡太守へ上ります。

 

週刊誌を楽しみにするkawauso様 ver2

 

 

さらに辟召は、士である必要もなく庶民でも登用出来る上に、回数に制限がなく、おまけに一度、侍御史になると、そこに留まる事が少なく、郡太守、国相の2000石相当の高級ポストに有利な制度でした。

 

夢を叶えて袁術もん!

 

三公のポストでお気づきの方が出たかも知れませんが、この辟召制度を活用したのが四世三公の袁家で、およそ1世紀もの間、三公を出し続けた袁家が辟召した人材は膨大な数になり、後漢末の風雲で袁紹や袁術が高い声望を得るのに非常に大きく貢献したのです。

 

kawauso編集長

 

いずれにせよ、辟召を受けられれば、20年間安月給でヘーコラする必要もなく五府の属官から、侍御史を経て郡太守、国相ポストにつけたのですから誰もが羨望した事でしょうね。こんな有利な制度ならkawausoもお願いしたいですよ、夢を叶えて袁術もん!

 

辟召も断る究極のジャンピングチャンス徴召

内容に納得がいかないkawauso様

 

ところが、士大夫の中には、不届きにも五府の辟召さえ辞退して受けない人がいました。決して謙遜ではありません、実は、辟召の上には皇帝が直々に人材を登用する徴召という最高のジャンピングチャンスがあり徴召を受けたいなら建前として辟召は辞退しておく必要があったからです。

 

古来、中国には帝王が在野から直接人材を登用するという制度がありました。

 

徴召は、これを皇帝の特権として皇帝が直接に人材を登用するもので、出迎えに公車が派遣され応じた人材は待詔として待機した後に天子に謁見を許され、その後、側近や県の長や令として転出させる事になります。

 

孔子と儒教

 

建前上、天子の判断に間違いはない事になっているので徴召に応じた人材は、確実に高い地位に就く事が可能になりました。本来なら、徴召が最高の令でしたが、後漢中期には儒教の虚礼が最高点に達し、かつ官に仕えない隠者の風が流行したので、徴召さえ断る人材が登場し、皇帝はさらなる徴召の方法を考案しないといけませんでした。

 

なんかメンドくさいっすね、儒教って、、

 

ジャンピングチャンスには名声が必要

 

ただし、辟召にせよ徴召にせよ、それを受ける為には世に知られないといけません。儒教全盛の後漢で世に知られるには、儒教の徳目を虚礼でも実践してみせる必要があり、それを人材鑑定家の許劭(きょしょう)のような人が評価して名声が高まりました。袁紹が若い頃、父母の喪に6年服して親孝行をPRしたというのは、この虚礼です。

 

許劭のような後漢のインフルエンサーに知られるには名士の世界で交流を持つ必要があり、時間も気苦労もお金もうんと掛かりました。

 

 

結局は、地道に役人としてキャリアを積み上げるか、名士層と頻繁にお付き合いしてパーティー中毒になり、インフルエンサーに自分の名前を覚えてもらって知名度を上げるか、元々、四世三公のような高貴な家柄に生まれるか、出世には、このいずれかの方法しかなかったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回はキャリアジャンピングチャンスとして、孝廉以外の超速の出世方法、辟召と徴召を紹介してみました。でも、どちらを選ぶにしても方向性が違うだけで地道な努力が必要な事は違いないんですよね。最初から四世三公の家に生まれれば、必要ない苦労なんですけどね・・・

 

参考文献:史実三国志 新たな発見に満ちた真実の三国志に迫る 宝島社

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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