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この記事の目次
とってもお得な辟召
辟召とは、五府の長、大傅、大尉、司徒、司空、大将軍と九卿、州牧、州刺史が行える特別な人材登用制度で、出世の早道になるのは五府の辟召でした。辟召に挙げられた人材は、大傅府、大尉府、司徒府、司空府、大将軍府それぞれの属官になった後、高第に挙げられ侍御史(600石)を経て、州刺史、国相、郡太守へ上ります。
さらに辟召は、士である必要もなく庶民でも登用出来る上に、回数に制限がなく、おまけに一度、侍御史になると、そこに留まる事が少なく、郡太守、国相の2000石相当の高級ポストに有利な制度でした。
夢を叶えて袁術もん!
三公のポストでお気づきの方が出たかも知れませんが、この辟召制度を活用したのが四世三公の袁家で、およそ1世紀もの間、三公を出し続けた袁家が辟召した人材は膨大な数になり、後漢末の風雲で袁紹や袁術が高い声望を得るのに非常に大きく貢献したのです。
いずれにせよ、辟召を受けられれば、20年間安月給でヘーコラする必要もなく五府の属官から、侍御史を経て郡太守、国相ポストにつけたのですから誰もが羨望した事でしょうね。こんな有利な制度ならkawausoもお願いしたいですよ、夢を叶えて袁術もん!
辟召も断る究極のジャンピングチャンス徴召
ところが、士大夫の中には、不届きにも五府の辟召さえ辞退して受けない人がいました。決して謙遜ではありません、実は、辟召の上には皇帝が直々に人材を登用する徴召という最高のジャンピングチャンスがあり徴召を受けたいなら建前として辟召は辞退しておく必要があったからです。
古来、中国には帝王が在野から直接人材を登用するという制度がありました。
徴召は、これを皇帝の特権として皇帝が直接に人材を登用するもので、出迎えに公車が派遣され応じた人材は待詔として待機した後に天子に謁見を許され、その後、側近や県の長や令として転出させる事になります。
建前上、天子の判断に間違いはない事になっているので徴召に応じた人材は、確実に高い地位に就く事が可能になりました。本来なら、徴召が最高の令でしたが、後漢中期には儒教の虚礼が最高点に達し、かつ官に仕えない隠者の風が流行したので、徴召さえ断る人材が登場し、皇帝はさらなる徴召の方法を考案しないといけませんでした。
なんかメンドくさいっすね、儒教って、、
ジャンピングチャンスには名声が必要
ただし、辟召にせよ徴召にせよ、それを受ける為には世に知られないといけません。儒教全盛の後漢で世に知られるには、儒教の徳目を虚礼でも実践してみせる必要があり、それを人材鑑定家の許劭のような人が評価して名声が高まりました。袁紹が若い頃、父母の喪に6年服して親孝行をPRしたというのは、この虚礼です。
許劭のような後漢のインフルエンサーに知られるには名士の世界で交流を持つ必要があり、時間も気苦労もお金もうんと掛かりました。
結局は、地道に役人としてキャリアを積み上げるか、名士層と頻繁にお付き合いしてパーティー中毒になり、インフルエンサーに自分の名前を覚えてもらって知名度を上げるか、元々、四世三公のような高貴な家柄に生まれるか、出世には、このいずれかの方法しかなかったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
今回はキャリアジャンピングチャンスとして、孝廉以外の超速の出世方法、辟召と徴召を紹介してみました。でも、どちらを選ぶにしても方向性が違うだけで地道な努力が必要な事は違いないんですよね。最初から四世三公の家に生まれれば、必要ない苦労なんですけどね・・・
参考文献:史実三国志 新たな発見に満ちた真実の三国志に迫る 宝島社
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