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陣借りって何?合戦に勝手に参加し活躍する陣借りとは?

2020年5月19日


 

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戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

戦国時代というと、身分関係なく全てが実力次第であり、最低の身分からでも戦国大名や天下人にもなれるというようなイメージがあります。

 

それは間違いではありませんが、戦国時代にも当然のように秩序があり、無名の人間では従軍しても兵卒扱いで、敵の首を獲っても褒美はなく、略奪の戦利品だけが頼りという事も結構ありました。では、兵卒ではなく武将として働きたい人はどうすればいいのか?その方法こそが押しかけ助っ人、陣借(じんか)りでした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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合戦に勝手に参加し活躍する陣借り

軍議(日本史)モブa

 

日本の合戦においては首実検(くびじっけん)による論功行賞が平安時代以来の慣習でした。

 

ですので、自費で勝手に合戦に参加して一方に味方して奮闘し、敵の有力武将の首を獲って戦後の首実検に差し出せば、褒美を受ける事が出来、その活躍次第では新しく武将として登用してもらえる可能性があったのです。

編集長日記02 kawausoさん、おとぼけさん

 

今でいえば、自ブログなどで、毎日記事を配信している間にPVが取れて人気が出て、ウチで書いてみないか?と誘いが来るようなものかも知れません。

 

しかし、陣借りはあくまでも勝手に参加したものなので、必ず恩賞や登用に繋がるとは限りませんでした。その場合には、すべて自腹で参加するのですから骨折り損のくたびれ儲けに終わるのです。

 

本当は恩賞ではなく感状が欲しかった

織田信長に追放される佐久間信盛

 

陣借りをしている武士の中には、身分が卑しく正規の手段では登用が難しい者や、仕えていた主君が滅びたり、何らかの理由で主君から追放されるなどして牢人になってしまった人々もいました。

西遊記巻物 書物_書類

 

このような人々にとっては、一時の褒美よりも、むしろ大名から感状を受ける方が目的という事もありました。感状とは抜群の手柄を立てた武士に主君が出す感謝状のようなもので、この人物がどこどこの戦いで、○○という敵将を討ち取ったとか○○の砦を落とすのに功績があった事をここに表彰するというような事を書いていました。

 

 

人材の異動が激しかった戦国時代には、感状は今でいう履歴書の代わりになり、特に名のある大名や武将からの感状は、仕官する上での大きな武器になります。名高き大名が保証しているのだから、採用してもいいだろうという判断の目安なのです。

 

どこまでも上を目指す実力と向上心のある武士は、合戦で大手柄を挙げては感状を受け取り、それを元に、よりランクの高い主君に仕官するという事を繰り返していました。

 

武田信玄

 

感状と陣借りで出世した藤堂高虎と前田利家

武田騎馬軍団 馬場信春

 

究極のフリーランスである陣借りで成功したケースは運も実力も必要で多いとは言えませんが、破格の大出世を遂げたケースもあります。それが後に伊勢津藩(いせつはん)32万石の大名になった藤堂高虎(とうどうたかとら)と、加賀100万石の前田家の祖になった前田利家(まえだとしいえ)でした。

 

藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村の土豪の家に生まれた武士でしたが、父の代に家は没落していて、事実上は足軽同然の身分に落ちていました。高虎はそんな状況で一念発起し、最初は足軽として浅井長政(あざいながまさ)に仕官して手柄を立て、長政から感状を受ける事に成功しています。

浅井長政(あざいながまさ)

 

ところが、その浅井長政は間もなく、織田信長によって滅ぼされて高虎は牢人に逆戻り、その後も、浅井の旧臣、阿閉貞征(あつじさだゆき)や同じく家臣で磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣として仕えた後に近江を去り、信長の甥の織田信澄(おだのぶずみ)に仕えるも長続きせず、流浪と窮乏生活を続け無銭飲食までやらかしたと言われています。

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

しかし、その後、羽柴秀吉の弟、羽柴秀長(はしばひでなが)に300石で仕えた頃から運が向き始め、天正9年には但馬(たじま)の土豪を討伐して3000石を受けて鉄砲大将となり、その後も中国攻め、賤ヶ岳の戦いで手柄を立てて加増を繰り返し四国攻めの功績で1万石を得て大名となります。

 

ただ、ここまでに高虎の体は満身創痍(まんしんそうい)であり、手の指も数本欠落していたそうです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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