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歌川国芳がスカイツリー建設を予言したって本当?

2020年6月19日


 

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酒癖が悪い孫権

 

東京スカイツリーは2012年5月に東京都墨田区押上(おしあげ)に開業した電波塔で、高さは634mもあります。そんなスカイツリーが開業した頃、幕末の浮世絵師歌川国芳(うたがわくによし)がスカイツリー建設を予言して浮世絵に残したという真偽不明の都市伝説が飛び交ったのです。

 

でも、それって本当なんでしょうか?調べてみました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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漫画にも影響を与えた歌川国芳とは?

 

歌川国芳は、本名を井草孫三郎(いぐさまごさぶろう)と言い、寛政(かんせい)9年(1798年)江戸日本橋本銀町一丁目に染物屋の子として生まれました。幼少期から絵を学んで才能を開花させ、12歳の時に描いた鍾馗堤剣図が初代歌川豊国(うたがわとよくに)の目に留まり文化8年に15歳で歌川門下に入門します。

 

しかし、家が貧しく学費が払えない事から絵を教えてもらえず、兄弟子の歌川国直の家に居候し、仕事を手伝いながら役者絵や合巻の挿絵を描いていますが人気があまりなく作品も僅かでした。

 

元々素行の悪い破天荒な国芳でしたが、人気の無さに腐らず発奮、勝川春亭(かつかわしゅんてい)や3代堤等琳(つつみとうりん)に師事し、葛飾北斎(かつしかほくさい)の影響を受けるなどして画力を磨くうちに運が開け、師の豊国没後の文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物(おおばんそろいもの)通俗水滸伝豪傑(つうぞくすいこでんごうけつ)百八人」が評判となり、武者絵の国芳と呼ばれ30歳目前で人気絵師になりました。

 

国芳は、役者絵、武者絵、美人画、名所図、戯画や春画まで多くのジャンルを手掛けましたが、中でも歴史や伝説、物語に題材を取った大判三枚つづりの大画面にクジラや骸骨、化け物が跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮しています。また西洋画の技法を学んだ国芳は、洋画の技法を浮世絵にも取り入れ、幻想的な雲や風景を描いて浮世絵の表現の幅を大きく広げました。

 

国芳は無類の猫好きとしても知られ、常に数匹から十数匹の猫を飼い、猫を懐に入れて作画したと言われ、猫の動きを巧みに写し取った浮世絵や猫を擬人化した風刺画も多く残し、人が集まって人になるような騙し絵風の作品も残すなど、北斎同様、現代の漫画家にも影響を与えたと評価されています。

 

歌川国芳がスカイツリーを予言した?

五重塔(仏塔)仏教

 

さて、歌川国芳がスカイツリーの建設を予言したというのは本当なのでしょうか?問題の浮世絵は、東都三ツ股(とうとみつまた)の図と呼ばれるもので、天保2年(1831年)隅田川と小名木川(おなぎがわ)の交わる三ツ股と呼ばれる中洲に立つ火の見(やぐら)と謎のタワーが描かれています。

 

しかし、これがスカイツリーじゃない事は浮世絵をズームするとすぐに分かってしまいます。謎のタワーは三本の木の骨組みを中心に添え木で強度を補強した木造構造物で、井戸をボーリングする為の櫓だと思われ、メタリックな外観のスカイツリーとは全然違います。

 

本当に国芳が未来に来てスカイツリーを見てこれを描いたなら、絵師なんですから、もう少し似せて描くでしょう。そうなっていないという事は、これはスカイツリーを描いたものではないと判断する以外にありません。

 

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スカイツリーと井戸掘り櫓は場所が違う

 

また、都市伝説では東都三ツ股の図ではスカイツリーの位置と謎の建造物の位置がピッタリ同じというような噂もありますが、これも嘘です。浮世絵の右端にある墨田川に掛かる永代橋(えいたいばし)から見て、現在のスカイツリーは正反対の位置になり、同じフレームに収めるのは困難でした。

 

さらにスカイツリーとおぼしき建造物の隣に立つ火の見櫓は深川にあるのですが、そこから墨田区にあるスカイツリーは4キロも北東にあります。こんなに位置関係が離れてしまっては、歌川国芳の描いたスカイツリーと実物のスカイツリーは同じ場所にあるとは到底言えないでしょう。

 

スカイツリーの高さの問題は?

 

しかし、歌川国芳の描いた井戸掘り櫓については高すぎるという疑問もあります。どう見ても火の見櫓の倍以上あり、こんな高層建築物が井戸掘り櫓ではないという疑問です。

 

でも、浮世絵は必ずしも見たそのままを描く必要はありません。むしろ、絵師の目を通して入って来た視覚情報を再構成して、より魅力的な構図にする事が普通です。その視点に立てば、高い建物はより高く、大きい物はより大きく描いた方が魅力的な名所図になる事もあります。

 

井戸掘り櫓については、葛飾北斎も「冨嶽(ふがく)三十六景 東都浅草本願寺(とうとあさくさほんがんじ)」で本願寺の大屋根を極端に大きく描いて職人を小さく描き屋根の巨大さを強調。右側の井戸掘り櫓は雲を突き破って高く描かれています。

 

これは事実ではなく、北斎は構図も建物も人物の大きさも井戸掘り櫓の高さも自分の脳内で再構成してその印象を名所図会に反映しているのです。

 

このように、印象を重視した浮世絵はクロード・モネのような事物を見たまま描くという西洋画の技法と一線を画した印象派に影響を与えますが、国芳も北斎と同じ事で、東都三ツ股の図では、墨田川が広がった空間に原寸大の井戸掘り櫓では低すぎて絵が寂しくなるので、意図的に櫓を大きく描いて構図を引き締めたのでしょう。

 

都市伝説ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

都市伝説と言えば、過去の時代の絵画にスマホが描かれているというのがあります。あれは面白い現象で、スマホが誕生するまではそんな絵画は一枚も発見されず、見ていても手鏡か何かとして片付けられていたのです。

 

東京スカイツリーも、スマホと同じ事で、スカイツリーのフォルムを見た人が偶々歌川国芳の東都三ツ股の図に描かれた井戸掘り櫓を見てスカイツリーに似ていると思い込んだのでしょう。

 

今後、新しいテクノロジーや新名所が出来たら、やはり同じように過去の絵画から似たようなオーパーツが再発見されるかも知れませんね。

文:kawauso

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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