卑弥呼の墓は福岡県朝倉市にある!鉄器の差と平原遺跡が解明の鍵?


 

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前方後円墳(古墳)

 

日本古代史最大の謎と言えば、邪馬台国(やまたいこく)の所在地です。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記述を根拠に大きく分けて、九州説と畿内説があり今の所論争に決着はついていません。しかし、古代史家の安本美典(やすもとびてん)氏によると邪馬台国は九州福岡県にあり、卑弥呼(ひみこ)の墓も福岡県朝倉市にあると推定しているようなのです。

今回は、邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! 「畿内説」における「失敗の本質」勉誠出版を参考に卑弥呼の墓について考えます。

内容に納得がいかないkawauso様

 

※こちらの記事は断定した事実ではなく一説としてお楽しみ下さい。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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九州に邪馬台国がある理由1:圧倒的な鉄器の差

 

安本氏が九州邪馬台国説を推す大きな理由は、畿内と九州の遺跡から出土する鉄の鏃と銅鏡の枚数の大きな差です。魏志倭人伝にも、竹箭或鐵鏃或骨鏃(ちくせんあるいはてつぞくあるいはこつぞく)とあり、邪馬台国では、竹か骨か鉄の(やじり)をつけていた事が記述されますし、同じく魏志倭人伝には魏の明帝曹叡が卑弥呼に銅鏡百枚を与えた記述もあります。

卑弥呼

 

そこで、安本氏が全国の遺跡から出土した弥生時代の鉄の鏃と鏡の枚数を県別に比較してみると、鏃は九州が圧倒的に多く、福岡県と奈良県の比較では、福岡県398個、奈良県4個という結果。次に鏡ですが、こちらは福岡が30面、奈良県が3面と大差がついています。さらに魏志倭人伝に登場する、(きぬ)勾玉(まがたま)鉄刀(てつとう)五尺刀(ごしゃくとう)、鉄の(ほこ)の出土数では、

魏晋世語(書類)

 

:福岡県15地点 奈良県2地点

勾玉:福岡県29個 奈良県3個

鉄刀:福岡県33振 奈良県0振

五尺刀:福岡県1本 奈良県0本

鉄矛:福岡県7本 奈良県0本

 

 

このように、奈良と福岡では圧倒的な差がつき、鉄器と銅鏡で考えるなら邪馬台国九州説の方が圧倒的説得力を保持しているのです。

 

卑弥呼の墓が福岡県平原遺跡である理由

テレビを視聴するkawauso編集長

 

では、そんな邪馬台国の女王卑弥呼の墓はどこにあるのか?

 

テレビ等のマスメディアでは、奈良県の纏向遺跡が注目を浴びていますが、安本氏は纏向ではなく、九州福岡県の平原遺跡(ひらはらいせき)の中心にある第一号墓こそが、卑弥呼の墓であると推定しています。その大きな理由は、この平原古墳1号墓からは、40面もの銅鏡が出土している事で、ひとつの墓から出土した数としては、現在日本で2番目の多さだそうです。さらに、その銅鏡のうち5枚は日本で発見された銅鏡では最大サイズの46.5㎝もありました。

 

ただ、出土した銅鏡は、前漢鏡一面と後漢鏡一面以外の38枚は日本製で中国の銅鏡ではありません。しかし、前漢鏡一面については、この形式の銅鏡としては中国でもトップクラスのもので、中国への朝貢国の中でも上位に位置付けられていた証だそうです。

曹爽と卑弥呼

 

弥生時代の日本で、特に形式が高い銅鏡を与えられた女王が眠る墓、、だとすれば、これは邪馬台国女王卑弥呼の墓と考えるのが妥当ではないでしょうか?

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国

 

元々墓は伊都国女王の墓とされたが・・

占いをする卑弥呼(鬼道)

 

従来、平原遺跡の一号墓は伊都国(いとこく)の女王の墓と考えられてきました。どうして女王かというと、他の墓に比較して武器の出土品が少なく装飾品が多く出土した為でした。しかし、魏志倭人伝の記述によると、伊都国には以前、代々王がいたものの、この墓が築かれた3世紀頃には南にある女王国に服属そこには大軍が置かれて、諸国を厳しく監督し、政治の中心が伊都国であったと書かれています。

君主論18 kawausoさん

 

だとすれば、平原遺跡一号墓は伊都国の女王ではなく、邪馬台国の卑弥呼である可能性が高くなります。

 

平原遺跡が注目されない理由

 

では、どうして卑弥呼の墓かも知れない平原遺跡に注目が集まらないのでしょうか?

それは、在野の考古学者の原田大六(はらだだいろく)という人物が、平原遺跡を調査、ここから鏡、剣、勾玉の3種の神器が揃って出土した事を根拠に、この墓を天照大神(あまてらすおおみかみ)の墓と主張した為でした。

 

原田大六が平原遺跡を調査したのは1965年で、日本はマルクス主義の左翼学者が多い時代であり、古事記や日本書記は権力者の作り話という風潮が圧倒的で、ましてや戦前の皇国史観への反動から神話についての抵抗も大変強い時代でした。そこに、原田大六の天照大神の墓と来たので、考古学会はトンデモ説として、これを黙殺してしまったのです。その経緯で、平原遺跡はなんとなく盛り上がりに欠ける遺跡になったのです。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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