卑弥呼の墓は福岡県朝倉市にある!鉄器の差と平原遺跡が解明の鍵?


はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

前方後円墳(古墳)

 

日本古代史最大の謎と言えば、邪馬台国(やまたいこく)の所在地です。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記述を根拠に大きく分けて、九州説と畿内説があり今の所論争に決着はついていません。しかし、古代史家の安本美典(やすもとびてん)氏によると邪馬台国は九州福岡県にあり、卑弥呼(ひみこ)の墓も福岡県朝倉市にあると推定しているようなのです。

今回は、邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! 「畿内説」における「失敗の本質」勉誠出版を参考に卑弥呼の墓について考えます。

内容に納得がいかないkawauso様

 

※こちらの記事は断定した事実ではなく一説としてお楽しみ下さい。


九州に邪馬台国がある理由1:圧倒的な鉄器の差

 

安本氏が九州邪馬台国説を推す大きな理由は、畿内と九州の遺跡から出土する鉄の鏃と銅鏡の枚数の大きな差です。魏志倭人伝にも、竹箭或鐵鏃或骨鏃(ちくせんあるいはてつぞくあるいはこつぞく)とあり、邪馬台国では、竹か骨か鉄の(やじり)をつけていた事が記述されますし、同じく魏志倭人伝には魏の明帝曹叡が卑弥呼に銅鏡百枚を与えた記述もあります。

卑弥呼

 

そこで、安本氏が全国の遺跡から出土した弥生時代の鉄の鏃と鏡の枚数を県別に比較してみると、鏃は九州が圧倒的に多く、福岡県と奈良県の比較では、福岡県398個、奈良県4個という結果。次に鏡ですが、こちらは福岡が30面、奈良県が3面と大差がついています。さらに魏志倭人伝に登場する、(きぬ)勾玉(まがたま)鉄刀(てつとう)五尺刀(ごしゃくとう)、鉄の(ほこ)の出土数では、

魏晋世語(書類)

 

:福岡県15地点 奈良県2地点

勾玉:福岡県29個 奈良県3個

鉄刀:福岡県33振 奈良県0振

五尺刀:福岡県1本 奈良県0本

鉄矛:福岡県7本 奈良県0本

 

 

このように、奈良と福岡では圧倒的な差がつき、鉄器と銅鏡で考えるなら邪馬台国九州説の方が圧倒的説得力を保持しているのです。


卑弥呼の墓が福岡県平原遺跡である理由

テレビを視聴するkawauso編集長

 

では、そんな邪馬台国の女王卑弥呼の墓はどこにあるのか?

 

テレビ等のマスメディアでは、奈良県の纏向遺跡が注目を浴びていますが、安本氏は纏向ではなく、九州福岡県の平原遺跡(ひらはらいせき)の中心にある第一号墓こそが、卑弥呼の墓であると推定しています。その大きな理由は、この平原古墳1号墓からは、40面もの銅鏡が出土している事で、ひとつの墓から出土した数としては、現在日本で2番目の多さだそうです。さらに、その銅鏡のうち5枚は日本で発見された銅鏡では最大サイズの46.5㎝もありました。

 

ただ、出土した銅鏡は、前漢鏡一面と後漢鏡一面以外の38枚は日本製で中国の銅鏡ではありません。しかし、前漢鏡一面については、この形式の銅鏡としては中国でもトップクラスのもので、中国への朝貢国の中でも上位に位置付けられていた証だそうです。

曹爽と卑弥呼

 

弥生時代の日本で、特に形式が高い銅鏡を与えられた女王が眠る墓、、だとすれば、これは邪馬台国女王卑弥呼の墓と考えるのが妥当ではないでしょうか?

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国


元々墓は伊都国女王の墓とされたが・・

占いをする卑弥呼(鬼道)

 

従来、平原遺跡の一号墓は伊都国(いとこく)の女王の墓と考えられてきました。どうして女王かというと、他の墓に比較して武器の出土品が少なく装飾品が多く出土した為でした。しかし、魏志倭人伝の記述によると、伊都国には以前、代々王がいたものの、この墓が築かれた3世紀頃には南にある女王国に服属そこには大軍が置かれて、諸国を厳しく監督し、政治の中心が伊都国であったと書かれています。

君主論18 kawausoさん

 

だとすれば、平原遺跡一号墓は伊都国の女王ではなく、邪馬台国の卑弥呼である可能性が高くなります。


平原遺跡が注目されない理由

 

では、どうして卑弥呼の墓かも知れない平原遺跡に注目が集まらないのでしょうか?

それは、在野の考古学者の原田大六(はらだだいろく)という人物が、平原遺跡を調査、ここから鏡、剣、勾玉の3種の神器が揃って出土した事を根拠に、この墓を天照大神(あまてらすおおみかみ)の墓と主張した為でした。

 

原田大六が平原遺跡を調査したのは1965年で、日本はマルクス主義の左翼学者が多い時代であり、古事記や日本書記は権力者の作り話という風潮が圧倒的で、ましてや戦前の皇国史観への反動から神話についての抵抗も大変強い時代でした。そこに、原田大六の天照大神の墓と来たので、考古学会はトンデモ説として、これを黙殺してしまったのです。その経緯で、平原遺跡はなんとなく盛り上がりに欠ける遺跡になったのです。

【次のページに続きます】

次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 前方後円墳(古墳)
  2. オオクニヌシ(日本神話)
  3. 勾玉を持っているツクヨミ
  4. ニギハヤヒ(日本神話)
  5. 邪馬台国と卑弥呼軍
  6. 鬼道を使う卑弥呼

コメント

  • コメント (5)

  • トラックバックは利用できません。

    • 三鷹
    • 2021年 3月 02日

    地理的な面から見ても半島に近い福岡が圧倒的に有利だと思います。
    卑弥呼の墓はまずは平原1号墳で間違いないです。
    2代目の台与の時代に東征して敵から狙われにくい内陸部の奈良に移って来たんでしょう。
    その証拠が同じ朝倉や甘木の地名が沢山、大和でも使われているのが何よりもの証拠です。
    そして台与は大和政権の権威を上げる為に糸島の平原1号墳から卑弥呼の遺体を移送し箸墓古墳に移したのでしょう。
    太古の昔から墓を移したりすることは良くあることである。
    そして台与の墓は纏向古墳に眠っている。

    • 匿名
    • 2020年 7月 12日

    なるほどその説もありますねえ

    • 匿名
    • 2020年 6月 19日

    見聞きしてきた中では四国説が一番説得力ありました。
    宇摩説だったと思います。

      • 匿名
      • 2021年 3月 09日

      恐らくそれはないと思います。

    • 匿名
    • 2020年 6月 19日

    魏志倭人伝の記述を信じるなら、一向が素通りした北九州にある時点で邪馬台国比定地からは外れますね。
    古墳のように誰が見てもはっきりとお宝が眠っていると分かる形状の墳丘墓が荒らされない訳がなく、出土品を根拠に考えるのは流石に説得力があるとは言えないでしょう。
    仁徳天皇陵として知られる大仙陵古墳は江戸時代には既に盗掘されている事実が知られており、更に室町時代には城として利用されるなど後世の破壊が進んでいます。
    立派な古墳ほど盗掘の被害に遭いやすい(苦労に値する対価が見込める)のですから、平原遺跡のような小さな古墳はお宝が眠っていないと判断されて盗掘を免れ、結果として現代人からすれば大きな権力を持った人物の墓では?という錯誤が生まれるのだと思います。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“二宮の変

“三国志データベース"

“三国志人物事典

三国志って何?




PAGE TOP