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この記事の目次
袁紹の叔父・袁隗
ここで袁紹の叔父である袁隗について説明します。袁隗は袁湯の子で、はっきりと名前が残ってはいないのですが袁湯には男子が12人いました。その内名前が分かっているのは早逝した袁平、袁紹の父であるやはり早逝した袁成、袁家後継者となった袁逢、そして袁隗です。そして袁隗は兄の袁逢よりも先に三公となり、司徒に二度就任しています。
四世三公の三公である司徒に兄よりも早く、二度、在位も長かったことから袁隗はかなり優秀な人物であったことが分かりますね。しかしそんな袁隗は甥である袁紹が反董卓連合を結成したことによって董卓に殺害されてしまうのです。
袁隗が袁紹を立派に育てた?
袁紹は幼い頃に父親が死んでしまったので、叔父である袁逢、袁隗によって育てられたと言います。二人の叔父は成人前から袁紹に期待をかけていました。
そんな袁紹も若い頃は素行が悪かったのですが、それを見咎めた袁隗は「お前は袁家を滅ぼすつもりか」と厳しく非難、指導したので袁紹も反省し、立派に成長したと言います。これが本当であれば兄の遺児、それも母親の身分が高くない甥を三国志に残る英雄たちの一人として育てたのは叔父である袁隗ということになりますね。
……と言う言い方にしたのは、実は後漢書の袁紹伝では「袁紹は悪ガキでおじさんに怒られたりしたけど反省しなかったよ」とさり気なく三国志の袁紹伝とは違うことが書かれているからです……どっちなんでしょうか?
袁家を背負う重責
さて袁家は間違いのない名家であり、袁紹はその袁家を背負って立っていたと言っても過言ではないでしょう。そして三公を輩出した家の一人として、重責を負っていたのではないでしょうか。だからこそ個人的には、袁紹は名家の中でも自分の身分でも「何か」を「やろう」としていたのではないかと考えてしまうのです。
漢王室は既に失墜、董卓という暴虐の徒が出現、混乱する国の中でなお、袁紹は何かを成し遂げようとしていたのではないかと思います。もっと袁紹が長く生きていればそれが見れたのかな、なんてちょっとセンチメンタルな気分になってしまいますね。
三国志ライター センのひとりごと
個人的な意見になりますが、袁隗という叔父に厳しく育てられたからこそ袁紹は腐ることなく袁家を背負っていけたのだと思います。しかし結果的に袁家を潰してしまった袁紹の息子たちを育てたのは袁紹自身……そう考えると、教育というのは大事だなぁとも思ってしまうんですよね。
もしかして自分が子供の頃から苦労したから子供にはそうしたくなくて……自分が生きている内に色々やっておけば大丈夫と思っていたのかな?……と、袁紹について色々考えてしまうのでした!
参考文献:
魏書公孫サン伝 魏書袁紹伝 董卓伝
後漢書 袁紹伝
後漢書注釈『風俗通義』
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