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孫晧の宮殿は仕方なかったのでは?
さて、孫晧が新築させた顕明宮ですが、太初宮が720メートル四方だったのに対して、1200メートル四方と面積が倍近くもあります。しかも、顕明宮には、工芸の限りを尽くしたとされ、その為に国庫が空っぽになったそうですから、後世の歴史家に孫晧が暴君として攻撃される根拠になっています。
でも、その前に、孫権の太初宮が武昌宮の古い資材を使って建築した宮殿なら、19年の間に、また相当老朽化が進んだとしても不思議はありません。
孫晧としては、
「もう限界だ!朕は皇帝だぞ、いくら祖父大帝の築かれた宮殿とはいえ、こんなボロ宮殿にいつまでも住んでおられるか!新築だ!しんちくーーー!」
みたいに、我慢できなくなって顕明宮を築いたんじゃないでしょうか?
それなら、孫権の並外れたドケチにも責任の一端はあるような気もします。
三国志ライターkawausoの独り言
孫権の趣味は、狩猟と宴会くらいなもので、それはそれなりにお金は掛かりますが、曹叡のように大宮殿を築くのに比べれば、民衆に負担を掛けない質素な趣味と言えます。
しかし、孫権の住居に対する質素ぶりは、ちょっと桁が外れていて、孫権に仕える重臣たちは、さぞや迷惑したんじゃないかと思えてなりません。孫権が頑固にならないで、新宮殿を造営すれば孫の悪行が1つ減ったかも知れないのにね。
参考文献:正史三国志 江表伝
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