2020年は東京オリンピックの予定でしたが、感染症コロナ対策により2021年に開催が延期されました。という事で、今回の特集もフライングという事になりましたが、前向きにとらえて、1896年から始まった近代五輪の歴史について、色々語って行こうと思います。
今回の記事では長年オリンピックの精神だったアマチュアリズムと、どうしてプロアスリートが嫌われたのかをオリンピック草創期の歴史と共に語ります。
オリンピックは富国強兵と共に
近代オリンピックの生みの親は、よく知られているクーベルタン男爵です。彼はフランス貴族の三男坊でしたが、彼の少年時代祖国フランスは普仏戦争でドイツに大敗しました。敗北の原因は色々ですが、鍛え抜かれたドイツの兵士に対して、フランス兵の体格が貧弱だった事もありました。
そこで、若きクーベルタンはフランスの富国強兵策の一環としてイギリスのパブリックスクールの体育プログラムに目をつけます。「これだ、スポーツをフランスの教育に取り入れよう」こうして、クーベルタンは、フランス運動競技協会連合を組織します。
スポーツにハマったクーベルタンは古代ギリシャやローマ文化オタクでもありました。1890年に発表された聖地オリンピアの発掘報告書にインスピレーションを受けたクーベルタンは閃きます。
「そうだ、、古代オリンピックを復興させ世界中からスポーツマンが参加する大会を開けば、スポーツを通して世界平和に繋げる事ができるぞ」
クーベルタンは、こうしてオリンピック復興計画をブチあげますが反応はイマイチ、ガッカリするクーベルタンでしたが、それでも、各国を歴訪して賛同者を募った結果ついに第一回近代五輪をギリシャの首都アテネで開催する所まで漕ぎつけたのです。
第一回オリンピック中止の危機
しかし、やっと決まったオリンピックですが、当時のギリシャも財政難、使えそうな競技施設も整備できないので、
「悪いけど、お金ないんでオリンピックは返上します」と土壇場で言い出します。
冗談じゃないぞ、初回から返上されたらオリンピックは立ち消えだ!と焦ったクーベルタンは、オリンピック開催費用を考えられない程に安く発表。さらに初代のIOC会長のヴィケラスは、アテネ中の政治家やジャーナリストにギリシャで五輪を開催する意義と、観光客が殺到してお金が落ちる事を力説。その甲斐あり、ギリシャ王室と世界一の大富豪アベロフからの巨額の寄付もあり、なんとかオリンピックは開催の運びとなりました。
さて、肝心の第一回オリンピックは、陸上、競泳、体操、ウェイトリフティング、レスリングフェンシング、射撃、自転車、テニス等、8競技43種目で参加人数は241人、参加した国と地域はアメリカ、ギリシャ、ドイツ、フランス、イギリス、ハンガリー、オーストリアのような欧州中心で14カ国でした。
オリンピックは思った以上に大当たり、アテネのホテル代は観光客急増を見越し、軒並み高騰したので、ほとんどの観光客はオリンピック閉会後に来るという大誤算になりましたが、スタジアムは5万人の趙満員で、最終日のマラソンは地元ギリシャの選手が優勝するなどで大成功したのです。
ところが、このオリンピックの提唱者であるクーベルタンについては誰も語るものがなく、怒ったクーベルタンは、「もし恩知らずという競技があればギリシャがブッちぎり優勝」と回想録で漏らしています。
労働者は参加すな!アマチュアリズムの正体
オリンピックでは長い間アマチュアリズムが謳われていました。
アマチュアリズムとは、スポーツで食べているようなプロフェッショナルはオリンピックには出さない。オリンピックは、趣味でスポーツを愛好するアマチュアのものでプロを入れてはビジネス臭くなり清く正しいオリンピックが損なわれると言う主張です。
しかし、このアマチュア規定、第3回のセントルイス大会までオリンピックの規定にはありませんでした。それが、オリンピックの規定に入るのは、1908年の第4回ロンドン大会からで、その理由はイギリスが階級社会でありスポーツが上流階級の教養の一部だったからでした。
イギリス陸上競技連盟は、
①賞金目当てにプロと競技をしたもの
②生活費を稼ぐ為に競技を教えた者(体育教師・トレーナー含む)
③雇われている機械工、職工、工場労働者
これらに該当する人は、アマチュアと認めないとしオリンピックから排除します。なんの事はないIOCは労働者を差別し、オリンピックを貴族階級のジェントリーだけが参加できる閉鎖的なものにしようとしたのでした。
スポーツを世界に開かれたものにしたいクーベルタンは、
「いや、厳密にプロ・アマを区別するのやめない?皆、スポーツを愛する仲間なんだしさ曖昧でいこうよ」とアマチュア規定に反対でしたが、IOC委員には貴族が多く、金の為にスポーツをする汚らわしい労働者連中とは競いたくないと、この規定を通過させオリンピック憲章に書き込んでしまったのです。
特に5代目IOC会長のアベリー・ブランテージ(1952~1972)はガチガチのアマチュアリストで、オリンピックに大きな歪みを残しました。
女はスポーツすな!クーベルタンの主張
スポーツを世界に開かれたものにしようとしたクーベルタンですが一方で女子スポーツには大反対でした。
「スポーツは男がやるものであり、女性は亭主に従い家を守るのが役目だ。女子スポーツは、男性客がエロい目で観賞する悪趣味で下品な興行に過ぎない。当然、神聖なオリンピックに女子スポーツなど参加させるべきではない!どうしても出るというなら勝者に冠を授けるコンパニオンが限界だ!」
しかし、このような意見はクーベルタンだけではなく、20世紀初頭の世界ではむしろ当たり前でした。同性の女性からでさえ、
「女が肌を露出し男と共に汗を流すなんて汚らわしく下品この上ない」と否定する意見が多かったのです。
そんなこんなで、第一回アテネ五輪には女性の参加は許されませんでした。
ところが、女性にもスポーツの自由をという意見は日増しに強くなり、第二回の1900年パリ大会には、ゴルフやテニスに限り女性の参加が認められます。ただ、当時の女子テニスは、長いスカートで足首を隠し、腰はコルセットで締めあげ、手首までのハイネックシャツと帽子というフル装備で、とても軽快に汗を流すというわけにはいきませんでした。
その後、婦人参政権が認められ、女性の社会進出が進むにつれ、現在のような男女平等のスポーツ環境が整えられていきます。近代五輪は女性の自由獲得の歴史でもあったのです。
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