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軌道に乗った近代五輪
初回のアテネ大会こそ成功したものの、オリンピックの前途は多難でした。第二回パリ大会は、スポーツを低俗な娯楽とみなすフランス人政治家の冷淡な対応でパリ万博の付属イベントになり、iocは蚊帳の外というグダグダ運営で大失敗。
第三回のセントルイス大会も、万博と抱き合わせという添え物扱いで、失敗を予想したクーベルタンは渡米さえせず、競技もネイティブアメリカンの少数部族徒競走のような興行まがいの事が行われて大失敗でした。
次の第四回ロンドン大会も、五輪は万博の添え物扱い、運営費の問題やイギリスびいきの判定、アメリカとイギリスのナショナリズム紛争で揉めますが、最期のマラソンが大好評で人気爆発し、ようやく万博の添え物から脱却します。
1912年の第五回ストックホルム大会では、クーベルタンのIOC委員としての権限が強まり、かつてない程に運営が上手くいきました。実に苦節16年で、オリンピックは軌道に乗り、今日の姿になったのです。
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