こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
漢中王即位から関羽への将軍号授与まで正味1ヶ月
時系列で並べてみると、劉備が漢中を領有したのが西暦219年の正月、曹操が陽平関に至ったのが3月で、劉備に勝てずに長安まで撤退したのが5月です。
漢中を領有しない内は、漢中王を名乗らないでしょうから、劉備の漢中王即位は、5月から6月の出来事、一方で関羽が樊城に曹仁を攻めたのは7月の出来事。
当時の交通事情を考えて、費詩が関羽に見えて前将軍に任命するのに1ヶ月くらいはかかると考えても、関羽は、今から樊城に曹仁を攻めるぞ!という慌ただしい状態で、前将軍の印綬を受けた事になります。
むしろ逆ではないだろうか?
いや、もしかすると逆かも知れません。
劉備は関羽が「樊城を攻める」と連絡を寄こしたものだから、漢中王たる自分の印綬もなしに、関羽が魏に攻めあがると、色々マズいと考えて、慌てて費詩を使者に寄こして、前将軍としたのではないでしょうか?
そうだとすれば、劉備が慌ただしく漢中王になったのも仕方なく、本来なら先祖の劉邦の漢王即位に合わせて正月に即位するつもりだったのを、関羽の北上に合わせて前倒しにしたのではないかとも思えます。
実際、劉備の漢中王即位は成都で挙行されたわけではなく、曹操を追い払った直後に漢中でなされています。意地悪な言い方をすると、劉備は関羽に振り回され、慌ただしく即位したとも推測されます。
本当は前後左右将軍より上を狙った?
劉備が費詩に命じて関羽を前将軍にした時に、関羽が老いぼれと同列になれるか!とこれを拒否したのは有名ですが、この時に費詩が関羽を説得した部分は結構意味深です。
①そもそも王業を立てるのに用いる人は1名ではない。
②蕭何や曹参は高祖と古くからの馴染みだが陳平・韓信が亡命した時、蕭何や曹参は彼らより下の地位にあった。
しかしその事で恨んだとは聞かない。
③漢王は一時の功(夏侯淵討ち取り)から黄漢升を大変に重用しているが心の中の評価まで関羽より上とどうして言えるのか?
④漢王と関羽は例えるなら一心同体。喜びも悲しみも共有した身内それが地位の上下で不満を言うのは宜しくない。
⑤私はただの使者なので、受けぬというなら引き下がるが、よくよく考えないと後悔しても及ばない事になる。
この文面をみると、関羽は俺は黄忠よりも上、つまり前後左右将軍よりも上位の将軍職じゃないと納得出来ないと怒っている感じにも取れます。それより上なら、車騎将軍とかで後に張飛が任命されていますけど、頭一つ抜きんでた将軍位が欲しかったのかもと感じます。
しかし、費詩に
「あんた、それはワガママだ、後で後悔しても知らんぞ。俺はただの使者だからどうでもいいけどよ」と叱られ、自分の傲慢さに気づいて改めたのではないかと思います。
kawauso基調講演まとめ
kawausoの現在の考えでは、関羽の樊城攻めは劉備の要請を受けたものではなく単独行動。それに劉備は振り回されて、先祖の劉邦の漢王就任と大きくずれた5月か6月に漢中王に即位し、慌ただしく関羽を前将軍にしたのではないかと考えます。
関羽は劉備と手を切るつもりはないものの、より裁量の大きい存在を目指し関羽を部下扱いにしたい劉備との間で葛藤が起きていたのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志
関連記事:関羽は本当に反権威の人だったのか?
関連記事:蜀ファンに衝撃!実は関羽は劉備の部下ではなく群雄(同盟主)だった!?