関羽の樊城攻めは単独行動だった?

2020年11月7日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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樊城の戦い

 

蜀の落日の契機になった戦いと言えば、樊城(はんじょう)の戦いです。

 

于禁と兵士

 

関羽は、西暦219年の7月頃に北上して樊城を囲み、曹操が派遣した援軍の于禁(うきん)の軍が折からの長雨で水没して降伏すると、数万の兵を吸収、さらに襄陽(じょうよう)まで包囲し、一時は曹操が本気で鄴からの遷都を考える程でした。

 

でも、よくよく見てみると関羽の樊城攻め、とっても奇妙なタイミングなのです。

 

kawausoさんを中心に講義を受ける視聴者

 

※こちらの記事は、はじめての三国志オンライン勉強会の基調講演です。オンラインに参加なさりたい方は、一読して頂けると理解がスムーズになると思います。

 

関羽の樊城攻めは単独行動だったのでは?

碁をうつ関羽

 

西暦219年正月、劉備は夏侯淵は与(くみ)しやすしという法正の意見を容れて漢中攻略に着手し、首尾よく定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中を攻略します。

 

それとほぼ同じ頃、魏では、宛城(えんじょう)で侯音(こうおん)が反乱を起こしており、宗子卿(そうしけい)という人物は侯音に対して、関羽の援軍が来る前に魏公がやってくれば、あなたは殺されると発言しています。ここを見ると、侯音は関羽の援軍を宛てにして蜂起したとも考えられます。

 

曹仁

 

しかし、関羽は動かず、侯音は1ヶ月ほど頑張って曹仁により殲滅させられました。この時に反乱に乗じていれば、漢中と南陽郡で同時に魏軍に攻撃を仕掛ける事になり、関羽の北上作戦は上手く行っていたかも知れません。

 

では、なんでそうしなかったのか?

もしかすると、劉備と関羽は連携を取らず、バラバラに魏に攻め込んだからなんじゃないでしょうか?

 

呂蒙

 

理由としては、背後の呂蒙が手強いと感じた関羽が、迂闊(うかつ)に北上できなかったというのが一番大きいかも知れませんけど、、関羽は必ずしも劉備の命令に従わないといけない存在じゃないのかも知れません。

 

劉備の漢中攻略戦及び関羽襄陽攻め時系列

君主論18 kawausoさん

 

kawausoは、以前より関羽は劉備の部下というより対等な同盟関係であり、お互いにそれぞれ漢朝復興の為に戦おうという共闘関係だったのではと考えています。

 

特に、劉備が荊州南郡を任せてからは、関羽は半分独立した群雄になっていたのではないかと思うのです。そう思って見てみると、劉備が漢中王になり、関羽を前将軍に任命するまでの時系列が、かなり、キツキツである事に気が付きました。

 

樊城の戦い特集

 

夏侯淵の死から関羽の死まで時系列

孔明

 

・西暦219年正月定軍山で夏侯淵黄忠に討たれる(夏侯淵伝)

・西暦219年春 劉備は黄忠に命じて定軍山で夏侯淵と益州刺史趙顒を斬る(先主伝)

・西暦219年春正月、曹仁が宛城を屠り、侯音を斬った。夏侯淵は劉備と陽平で戦い定軍山で劉備に殺された(武帝紀)

 


・西暦219年3月、魏王は長安より斜谷に出で、軍は要害を遮って漢中に臨み、かくて陽平に至った。劉備は険要に拠って拒守した。(武帝紀)

・西暦219年夏5月、曹操、軍を率いて長安に還った。(武帝紀)劉備は漢中を所有、劉封・孟達・李平らを遣って上庸に申耽を攻めさせた。(先主伝)

・西暦219年(5~6月推測)劉備は漢中王となり、関羽を拝して前将軍とし節鉞を仮した。この歳、関羽は軍兵を率いて樊城に曹仁を攻めた。(関羽伝)


・西暦219年秋7月、夫人の卞氏を王后とした。于禁を派遣し曹仁を助け関羽を撃たせた。(武帝紀)

・西暦219年8月、漢水が溢れて于禁の軍に灌ぎ軍が水没した。関羽が于禁を獲え曹仁を囲んだ。徐晃に救わせた。(武帝紀)

・西暦219年9月、相国鍾繇を西曹掾魏諷の謀反に連坐して罷免した(武帝紀)


・西暦219年冬10月、曹操軍が洛陽に帰還した。孫権が使者を遣わして上書するには、

関羽を討って効とせんと。魏王は洛陽より関羽に南征し、至る前に徐晃が関羽を攻めて破り、関羽は敗走して曹仁の囲みを解いた。

・西暦219年12月、潘璋の司馬の馬忠が関羽およびその子の関平と都督趙累らを章郷で獲え、かくて荊州は平定された。(呉主伝)

・西暦220年正月、曹操洛陽に至った。孫権が撃って関羽を斬りその首を伝えた。

 

参考:武帝紀や先主伝、夏侯淵伝、呉主伝、関羽伝

※劉備が漢中王になった月は正史に記載なく推測

漢中王即位から関羽への将軍号授与まで正味1ヶ月

内容に納得がいかないkawauso様

 

時系列で並べてみると、劉備が漢中を領有したのが西暦219年の正月、曹操が陽平関に至ったのが3月で、劉備に勝てずに長安まで撤退したのが5月です。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

漢中を領有しない内は、漢中王を名乗らないでしょうから、劉備の漢中王即位は、5月から6月の出来事、一方で関羽が樊城に曹仁を攻めたのは7月の出来事。

 

当時の交通事情を考えて、費詩が関羽に見えて前将軍に任命するのに1ヶ月くらいはかかると考えても、関羽は、今から樊城に曹仁を攻めるぞ!という慌ただしい状態で、前将軍の印綬を受けた事になります。

 

むしろ逆ではないだろうか?

土いじりをする劉備

 

いや、もしかすると逆かも知れません。

 

劉備は関羽が「樊城を攻める」と連絡を寄こしたものだから、漢中王たる自分の印綬もなしに、関羽が魏に攻めあがると、色々マズいと考えて、慌てて費詩(ひし)を使者に寄こして、前将軍としたのではないでしょうか?

 

張良と劉邦

 

そうだとすれば、劉備が慌ただしく漢中王になったのも仕方なく、本来なら先祖の劉邦の漢王即位に合わせて正月に即位するつもりだったのを、関羽の北上に合わせて前倒しにしたのではないかとも思えます。

 

実際、劉備の漢中王即位は成都で挙行されたわけではなく、曹操を追い払った直後に漢中でなされています。意地悪な言い方をすると、劉備は関羽に振り回され、慌ただしく即位したとも推測されます。

 

本当は前後左右将軍より上を狙った?

関羽にネチネチ怒られる糜芳

 

劉備が費詩に命じて関羽を前将軍にした時に、関羽が老いぼれと同列になれるか!とこれを拒否したのは有名ですが、この時に費詩が関羽を説得した部分は結構意味深です。

 

①そもそも王業を立てるのに用いる人は1名ではない。

 

 

②蕭何(しょうか)や曹参(そうしん)は高祖と古くからの馴染みだが陳平(ちんぺい)・韓信(かんしん)が亡命した時、蕭何や曹参は彼らより下の地位にあった。

しかしその事で恨んだとは聞かない。

③漢王は一時の功(夏侯淵討ち取り)から黄漢升を大変に重用しているが心の中の評価まで関羽より上とどうして言えるのか?

④漢王と関羽は例えるなら一心同体。喜びも悲しみも共有した身内それが地位の上下で不満を言うのは宜しくない。

⑤私はただの使者なので、受けぬというなら引き下がるが、よくよく考えないと後悔しても及ばない事になる。

 

強くなる関羽

 

この文面をみると、関羽は俺は黄忠よりも上、つまり前後左右将軍よりも上位の将軍職じゃないと納得出来ないと怒っている感じにも取れます。それより上なら、車騎将軍とかで後に張飛が任命されていますけど、頭一つ抜きんでた将軍位が欲しかったのかもと感じます。

 

しかし、費詩に

「あんた、それはワガママだ、後で後悔しても知らんぞ。俺はただの使者だからどうでもいいけどよ」と叱られ、自分の傲慢さに気づいて改めたのではないかと思います。

 

kawauso基調講演まとめ

kawauso 三国志

 

kawausoの現在の考えでは、関羽の樊城攻めは劉備の要請を受けたものではなく単独行動。それに劉備は振り回されて、先祖の劉邦の漢王就任と大きくずれた5月か6月に漢中王に即位し、慌ただしく関羽を前将軍にしたのではないかと考えます。

 

関羽は劉備と手を切るつもりはないものの、より裁量の大きい存在を目指し関羽を部下扱いにしたい劉備との間で葛藤が起きていたのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志

 

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魏延特集

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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