関羽の樊城攻めは単独行動だった?


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関羽の樊城攻めは単独行動(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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漢中王即位から関羽への将軍号授与まで正味1ヶ月

内容に納得がいかないkawauso様

 

時系列で並べてみると、劉備が漢中を領有したのが西暦219年の正月、曹操が陽平関に至ったのが3月で、劉備に勝てずに長安まで撤退したのが5月です。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

漢中を領有しない内は、漢中王を名乗らないでしょうから、劉備の漢中王即位は、5月から6月の出来事、一方で関羽が樊城に曹仁を攻めたのは7月の出来事。

 

当時の交通事情を考えて、費詩が関羽に見えて前将軍に任命するのに1ヶ月くらいはかかると考えても、関羽は、今から樊城に曹仁を攻めるぞ!という慌ただしい状態で、前将軍の印綬を受けた事になります。

 

むしろ逆ではないだろうか?

土いじりをする劉備

 

いや、もしかすると逆かも知れません。

 

劉備は関羽が「樊城を攻める」と連絡を寄こしたものだから、漢中王たる自分の印綬もなしに、関羽が魏に攻めあがると、色々マズいと考えて、慌てて費詩(ひし)を使者に寄こして、前将軍としたのではないでしょうか?

 

張良と劉邦

 

そうだとすれば、劉備が慌ただしく漢中王になったのも仕方なく、本来なら先祖の劉邦の漢王即位に合わせて正月に即位するつもりだったのを、関羽の北上に合わせて前倒しにしたのではないかとも思えます。

 

実際、劉備の漢中王即位は成都で挙行されたわけではなく、曹操を追い払った直後に漢中でなされています。意地悪な言い方をすると、劉備は関羽に振り回され、慌ただしく即位したとも推測されます。

 

本当は前後左右将軍より上を狙った?

関羽にネチネチ怒られる糜芳

 

劉備が費詩に命じて関羽を前将軍にした時に、関羽が老いぼれと同列になれるか!とこれを拒否したのは有名ですが、この時に費詩が関羽を説得した部分は結構意味深です。

 

①そもそも王業を立てるのに用いる人は1名ではない。

 

 

蕭何(しょうか)曹参(そうしん)は高祖と古くからの馴染みだが陳平(ちんぺい)韓信(かんしん)が亡命した時、蕭何や曹参は彼らより下の地位にあった。

しかしその事で恨んだとは聞かない。

③漢王は一時の功(夏侯淵討ち取り)から黄漢升を大変に重用しているが心の中の評価まで関羽より上とどうして言えるのか?

④漢王と関羽は例えるなら一心同体。喜びも悲しみも共有した身内それが地位の上下で不満を言うのは宜しくない。

⑤私はただの使者なので、受けぬというなら引き下がるが、よくよく考えないと後悔しても及ばない事になる。

 

強くなる関羽

 

この文面をみると、関羽は俺は黄忠よりも上、つまり前後左右将軍よりも上位の将軍職じゃないと納得出来ないと怒っている感じにも取れます。それより上なら、車騎将軍とかで後に張飛が任命されていますけど、頭一つ抜きんでた将軍位が欲しかったのかもと感じます。

 

しかし、費詩に

「あんた、それはワガママだ、後で後悔しても知らんぞ。俺はただの使者だからどうでもいいけどよ」と叱られ、自分の傲慢さに気づいて改めたのではないかと思います。

 

kawauso基調講演まとめ

kawauso 三国志

 

kawausoの現在の考えでは、関羽の樊城攻めは劉備の要請を受けたものではなく単独行動。それに劉備は振り回されて、先祖の劉邦の漢王就任と大きくずれた5月か6月に漢中王に即位し、慌ただしく関羽を前将軍にしたのではないかと考えます。

 

関羽は劉備と手を切るつもりはないものの、より裁量の大きい存在を目指し関羽を部下扱いにしたい劉備との間で葛藤が起きていたのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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