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呉の兵制
呉は、蜀以上に豪族連合の性格が強く、兵力についても世兵制が採用されています。世兵制とは兵を率いている武将が死ぬと、後継者がいるならその後継者に、後継者がいない場合や後継者が幼い時には、有力な武将に兵力と領地が引き継がれる制度です。
例えば、周瑜が死ぬとその兵力4000は息子の周循が継ぐはずでしたが、周瑜の領地の漢昌郡は統治が難しい土地なので、魯粛が相続し兵力4000もそのまま引き継がれます。
魯粛が死ぬと呂蒙が魯粛の兵力を引き継ぎますが、この頃には兵力10000名になり、呂蒙は漢昌太守として、劉陽、漢昌、州陵の地を兵力を養う土地として与えられていました。
また、呉の重鎮の韓当が疫病で死ぬと、息子の韓綜がその領地と兵力を引き継いでいます。このように呉では必ずしも兵力は君主の孫権に戻るのではなく、有力な武将から武将へ、当事者から後継者へ引き継がれている事が分かります。
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私兵の寄せ集まりの弊害
呉にしても蜀にしても、全兵力を君主が握っていないので、どうしても豪族の力関係が政治に反映され、呉は蜀と連携して魏を追い詰める事が出来ませんでした。
逆に魏は、必要な兵力を辞令1つですぐに集められ、君主が命令を下せば誰にでも大軍を率いさせることが出来ます。その性質上、戦力は平均的で特別強い部隊などは存在しにくかったかも知れませんが、このデメリットは自在な兵力動員のメリットを上回りませんでした。
これは私兵の寄せ集まりの呉・蜀では難しい事だったのです。元々の兵力差にプラスして、兵力の動員が自在な魏と、私兵の限界が露呈する呉蜀では戦争の即応性と機動力において、大きな差が出てきたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
魏呉蜀の兵力差はよく問題とされますが、それに加えて兵権が豪族の中にあるのか、君主の中にあるのかも大きな要因だと思われます
。蜀の滅亡時における姜維の軍勢と蜀本隊の提携の杜撰さは、姜維の兵力が姜維の私兵と化していた事実を裏書きしていますし、呉の滅亡時には、20万人はいたと思われる兵力は半分も出撃していません。兵力を兵戸で統一した曹操の目論見は中華統一が近づくほどに有効性を増したと言えるでしょう。
参考:史実三国志 新たな発見に満ちた史実の三国志に迫る 宝島社 / 2019年7月2日
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