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諸葛亮の南征の目的とは?
諸葛亮が南征を行ったのは魏との「北伐」を実行する2年前の事でした。南中の人々は度々蜀に反乱を起こし、そのたびに蜀は貴重な兵力を割くことになります。その為、北伐に向かう前に後方の憂いを断つ必要性があったのです。
当時の蜀では諸葛亮自ら南征に向かう事に反対意見もありましたが、諸葛亮はこれを押し切り、南征に向かい、並々ならぬ決意を示したのです。この南征は成功し、南中の人々を兵力として編入するとともに、この地域の豊富な産物を手に入れることにより、蜀の倉は潤ったのです。
また、この戦いは失敗した「夷陵の戦い」の2年後であり、動揺した蜀の団結力を高める狙いもあったと考えられますね。
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その後の「南蛮」
南中地域は蜀の時代にある程度安定しましたが、蜀が滅亡した後は再び多数の部族が乱立する状態に戻りました。代表的な政権に「爨」があり、これは蜀の武将「爨習」の子孫が立てたものです。
のちに「南詔」と呼ばれるチベット、ビルマ系の王国が立てられ、この地域を統一します。南詔は中国の「唐」と争い、また同盟も行いましたが、最終的には袂を分かち、中国南部から東南アジアまで幅広い勢力範囲を誇りました。
しかし、その後内部抗争で南詔は滅亡し、「大理国」が設立されましたが14世紀に「明」によって滅ぼされ、この地域も中国の影響下に入ることになるのです。
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三国志ライターみうらの独り言
中国は多数の民族が存在し、調べるほどいろんな文化があって実に面白いですよね。それをことごとく屈服させようとした漢人の恐ろしさも感じます。ちなみに「南蛮」とは蔑称で今は死語のようですね。
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