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「三国志」に登場する「南蛮」とは現在の何処なのか?

2021年11月7日


 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛亮の南征の目的とは?

北伐する孔明

 

諸葛亮が南征を行ったのは魏との「北伐」を実行する2年前の事でした。南中の人々は度々蜀に反乱を起こし、そのたびに蜀は貴重な兵力を割くことになります。その為、北伐に向かう前に後方の憂いを断つ必要性があったのです。

 

四輪車に乗る孔明

 

当時の蜀では諸葛亮自ら南征に向かう事に反対意見もありましたが、諸葛亮はこれを押し切り、南征に向かい、並々ならぬ決意を示したのです。この南征は成功し、南中の人々を兵力として編入するとともに、この地域の豊富な産物を手に入れることにより、蜀の倉は潤ったのです。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

また、この戦いは失敗した「夷陵(いりょう)の戦い」の2年後であり、動揺した蜀の団結力を高める狙いもあったと考えられますね。

 

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夷陵の戦い

 

 

 

その後の「南蛮」

降伏する劉禅

 

南中地域は蜀の時代にある程度安定しましたが、蜀が滅亡した後は再び多数の部族が乱立する状態に戻りました。代表的な政権に「(さん)」があり、これは蜀の武将「爨習(さんしゅう)」の子孫が立てたものです。

 

のちに「南詔(なんしょう)」と呼ばれるチベット、ビルマ系の王国が立てられ、この地域を統一します。南詔は中国の「唐」と争い、また同盟も行いましたが、最終的には袂を分かち、中国南部から東南アジアまで幅広い勢力範囲を誇りました。

 

しかし、その後内部抗争で南詔は滅亡し、「大理国(だいりこく)」が設立されましたが14世紀に「明」によって滅ぼされ、この地域も中国の影響下に入ることになるのです。

 

関連記事:劉禅その後はどうなった?皇帝劉禅の生涯・降伏後の姿は本当の姿だった?

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蜀漢の滅亡

 

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

中国は多数の民族が存在し、調べるほどいろんな文化があって実に面白いですよね。それをことごとく屈服させようとした漢人の恐ろしさも感じます。ちなみに「南蛮」とは蔑称で今は死語のようですね。

 

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三国志と異民族

 

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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