夷陵の戦いで敗北した劉備は呉と再戦するつもりだった?敗戦後の劉備を考察




はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

三国志を語るセンさん

 

人生には色々なターニングポイント、と呼ばれるものがあります。このターニングポイントは本人自身は分からず、後々から考えてみて「そういえばアレは」となるのが面白い所。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

そんなターニングポイントと言える瞬間は歴史に、三国志にもたくさん見ることができますが、その中でも劉備のターニングポイントと言える夷陵(いりょう)の戦いについて、今回は改めて考えてみたいと思います。




夷陵の戦いとは?

行軍する兵士達b(モブ)

 

夷陵の戦いとはざっくり言うと、劉備(りゅうび)が義弟である関羽(かんう)の仇を討つために、そして荊州(けいしゅう)の奪還のために呉を相手に戦った戦いです。

 

敗れる関羽雲長

 

この夷陵の戦いが起こる前の樊城(はんじょう)の戦いで魏と戦った際に、ここに呉が介入。関羽は樊城で命を落とします。

 

ブチギレる劉備

 

これに怒り狂った劉備は復讐戦を決意、幾人もの臣下たちが諫めるも聞き入れることなく、呉との戦いに臨みました。

 

関連記事:【徹底追及】劉備はどうしてあんないい加減な性格なのか?

関連記事:【夷陵の戦い】なぜ劉備は陸遜にフルボッコされたの?大敗北を考察




夷陵の戦いで善戦するも

呉軍が弱いと勘違いして進軍を進める馮習と劉備

 

夷陵の戦いは、最初こそ蜀が呉を押していました。ただしここで蜀の地が足を引っ張ります。

 

祁山、街亭

 

蜀の土地は山に囲まれた天然の防衛陣と言えますが、このために蜀の地から各所に進軍するのも大変なのです。

 

陸遜に騙されている事に気づいていない馮習と劉備

 

呉を押せば押すほど蜀の陣営は伸び、補給路も伸びていき、そこを陸遜(りくそん)に狙われて火計によって大敗北。

 

劉備

 

多くの武将たちが討ち死にし、劉備は傷心のまま白帝城(はくていじょう)にまでは何とか帰りましたが、それから動くことはなく病死しました。

 

関連記事:劉備はわがまま!?荊州を返さないと駄々をこねる理由

関連記事:劉備は本当に大器だったの?三国志演義の主役を斬る

 

伝説の企画 朝まで三国志 最強のワルは誰だ

朝まで三国志1

 

白帝城での劉備の死

樊城の戦い

 

さて劉備は白帝城に永安宮(えいあんぐう)を造営し、そこに滞在して、亡くなりました。蜀の都である成都には最期まで帰ることはなかったのです。

 

筆者はこれをずっと「そりゃ反対押し切って戦して、大敗北して立ち直れなくて、もう都にまで帰れないよなぁ……」と思っていました。

 

しかし色々と読み込んでみると、それとはまた別の理由も浮かんできたのです。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

劉備が白帝城に没した理由、それをまた考察してみたいというのが今回の主題。そしてその理由は……劉備は「再び孫呉と戦う気でいた」のではないか?と思いました。

 

関連記事:劉備は諸葛亮まで保証人にした借金大王だった

関連記事:夷陵の戦いで戦死した将軍や主要人物は誰なの?分かりやすく解説

 

白帝城の位置

劉備の臨終に立ち会う孔明

 

さて劉備が白帝城で病死したのは223年の六月、夷陵の戦いが始まったのが221年、そして222年の夏に大敗北して白帝城を訪れています。つまり戦い始めて一年ほどで敗北、白帝城に逃げ込んでから一年も経たずに病死していることになります。

 

ここでまず注目したいのが白帝城の場所、ここは蜀と呉の対立における最前線です。

 

二刀流の劉備

 

「そりゃあ負けて逃げ込んだから最前線にいるでしょ」と皆様思うかもしれませんが、ここで劉備が呉と戦いを考え、敢えてここにとどまったのではないかと考えた理由、それは馬忠伝(ばちゅうでん)にあります。

 

関連記事:劉備は白帝城で死んでいなかった!はじ三探偵・晃の事件簿 

関連記事:白帝城はどこにあるの?劉備が星になった場所を紹介

 

「狐篤を得た」

馬忠(呉の人)

 

劉備が夷陵の戦いで敗北した際に、巴西(はせい)太守であった閻芝(えんし)は兵士五千人を馬忠に率いさせて援軍として向かわせました。援軍としてやってきた馬忠を見た劉備は「黄権(こうけん)を失ったが狐篤を得た」と語ったと言います。

 

キレる劉備になだめる黄権

 

因み狐篤とは馬忠のこと(改名して馬忠に)で、黄権は夷陵の戦いで劉備を諫めるも聞き入れられず、敗北の際に撤退できずにやむを得ず魏に降ることになった武将です。

 

劉備はどうして馬忠の援軍を喜んだのか?

どうして成都まで帰ることなく白帝城に滞在したのか?

 

ポイント解説をするセン様

 

これらを加味すると劉備は未だ荊州を諦めておらず、関羽の仇も諦めておらず、呉と戦うつもりではなかったのかと思うのです。

 

関連記事:蜀が夷陵の戦いで敗北したことによってどんな影響を受けたの?

関連記事:石兵八陣(八卦陣)は実在した?陸遜が夷陵の戦いで破れなかった八卦陣

【次のページに続きます】




次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 龐統

    デザイン担当:よりぶりん

    劉備入蜀の立役者、龐統の全戦歴

    伏竜(ふくりゅう)というあだ名で呼ばれた孔…

  2. 南蛮族を仁愛を持って従わせる張嶷
  3. 劉備を支援する麋竺
  4. 劉備主役
  5. セクシーすぎる塩商人だった関羽
  6. 曹仁

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“光武帝

“三国志データベース"

“三国志人物事典

鍾会の乱

八王の乱

3冊同時発売




PAGE TOP