夷陵の戦いで敗北した劉備は呉と再戦するつもりだった?敗戦後の劉備を考察

2021年3月12日


 

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三国志を語るセンさん

 

人生には色々なターニングポイント、と呼ばれるものがあります。このターニングポイントは本人自身は分からず、後々から考えてみて「そういえばアレは」となるのが面白い所。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

そんなターニングポイントと言える瞬間は歴史に、三国志にもたくさん見ることができますが、その中でも劉備のターニングポイントと言える夷陵(いりょう)の戦いについて、今回は改めて考えてみたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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夷陵の戦いとは?

行軍する兵士達b(モブ)

 

夷陵の戦いとはざっくり言うと、劉備(りゅうび)が義弟である関羽(かんう)の仇を討つために、そして荊州(けいしゅう)の奪還のために呉を相手に戦った戦いです。

 

敗れる関羽雲長

 

この夷陵の戦いが起こる前の樊城(はんじょう)の戦いで魏と戦った際に、ここに呉が介入。関羽は樊城で命を落とします。

 

ブチギレる劉備

 

これに怒り狂った劉備は復讐戦を決意、幾人もの臣下たちが諫めるも聞き入れることなく、呉との戦いに臨みました。

 

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夷陵の戦いで善戦するも

呉軍が弱いと勘違いして進軍を進める馮習と劉備

 

夷陵の戦いは、最初こそ蜀が呉を押していました。ただしここで蜀の地が足を引っ張ります。

 

祁山、街亭

 

蜀の土地は山に囲まれた天然の防衛陣と言えますが、このために蜀の地から各所に進軍するのも大変なのです。

 

陸遜に騙されている事に気づいていない馮習と劉備

 

呉を押せば押すほど蜀の陣営は伸び、補給路も伸びていき、そこを陸遜(りくそん)に狙われて火計によって大敗北。

 

劉備

 

多くの武将たちが討ち死にし、劉備は傷心のまま白帝城(はくていじょう)にまでは何とか帰りましたが、それから動くことはなく病死しました。

 

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白帝城での劉備の死

樊城の戦い

 

さて劉備は白帝城に永安宮(えいあんぐう)を造営し、そこに滞在して、亡くなりました。蜀の都である成都には最期まで帰ることはなかったのです。

 

筆者はこれをずっと「そりゃ反対押し切って戦して、大敗北して立ち直れなくて、もう都にまで帰れないよなぁ……」と思っていました。

 

しかし色々と読み込んでみると、それとはまた別の理由も浮かんできたのです。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

劉備が白帝城に没した理由、それをまた考察してみたいというのが今回の主題。そしてその理由は……劉備は「再び孫呉と戦う気でいた」のではないか?と思いました。

 

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白帝城の位置

劉備の臨終に立ち会う孔明

 

さて劉備が白帝城で病死したのは223年の六月、夷陵の戦いが始まったのが221年、そして222年の夏に大敗北して白帝城を訪れています。つまり戦い始めて一年ほどで敗北、白帝城に逃げ込んでから一年も経たずに病死していることになります。

 

ここでまず注目したいのが白帝城の場所、ここは蜀と呉の対立における最前線です。

 

二刀流の劉備

 

「そりゃあ負けて逃げ込んだから最前線にいるでしょ」と皆様思うかもしれませんが、ここで劉備が呉と戦いを考え、敢えてここにとどまったのではないかと考えた理由、それは馬忠伝(ばちゅうでん)にあります。

 

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「狐篤を得た」

馬忠(呉の人)

 

劉備が夷陵の戦いで敗北した際に、巴西(はせい)太守であった閻芝(えんし)は兵士五千人を馬忠に率いさせて援軍として向かわせました。援軍としてやってきた馬忠を見た劉備は「黄権(こうけん)を失ったが狐篤を得た」と語ったと言います。

 

キレる劉備になだめる黄権

 

因み狐篤とは馬忠のこと(改名して馬忠に)で、黄権は夷陵の戦いで劉備を諫めるも聞き入れられず、敗北の際に撤退できずにやむを得ず魏に降ることになった武将です。

 

劉備はどうして馬忠の援軍を喜んだのか?

どうして成都まで帰ることなく白帝城に滞在したのか?

 

ポイント解説をするセン様

 

これらを加味すると劉備は未だ荊州を諦めておらず、関羽の仇も諦めておらず、呉と戦うつもりではなかったのかと思うのです。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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