甘寧と言えば、気に入らない料理人を殺してしまうなど粗暴な性格で知られます。しかし、それは全部、甘寧の性格ではなく、呉の待遇の悪さが原因かも知れません。
甘寧は元々益州にいましたが、劉焉が死んで劉璋が即位した頃に反乱を起こして失敗。
益州に居られなくなり荊州に逃げた甘寧
益州に居られなくなり荊州に逃げて劉表に仕えますが、謀反人を劉表が重んじるはずもなく、端役に甘んじます。愛想が尽きた甘寧は江東の小覇王、孫策に仕えようとしますが、渡河ポイントがある江夏は黄祖の支配下で孫策とにらみ合いの真っ最中。甘寧は、やむなく黄祖に仕えますが、ここでも手柄を立てて冷遇されます。
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黄祖を裏切り孫権に仕える
ようやく黄祖を裏切り孫権に仕えますが、やはり冷遇は相変わらずでした。はなはだしいのは、還暦に近くなってから皖城攻略で升城督に任命され、城壁をよじ登る仕事を任された時でしょう。
「甘寧一番乗り」で知られる有名なシーンですが、要は使い捨ての突撃部隊の隊長です。おまけにこの時、後詰は年若い呂蒙でした。
10年以上も呉に仕え、度々手柄を立てたのに、あまり出世も出来ず自分より、20歳は若い若僧の命令で命懸けの城壁登りの仕事をやらされる。「いかに、俺が元謀反人だからってあんまりだ」そんな鬱屈した感情が粗暴な行動になって出てきたのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志甘寧伝
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