「諸葛亮の弟子と言えば?」で「姜維!」と答える人は、まだまだ三国志の楽しさを半分しか知らないというのが筆者の暴論です。
というのも諸葛亮孔明の弟子で姜維のイメージが付いているのは、演義によるところが大きいからです。今回は諸葛亮の弟子はいないことをはっきりとさせつつも、その後を継いで言った人物たちについて語っていきたいと思います。
諸葛亮は弟子を持っていない
まず諸葛亮の弟子ですが、はっきり言いましょう。いません。
良く姜維、もしくは馬謖の名前が挙げられますが、諸葛亮は両名を高く評価していたとはされていても、弟子とはされていないのです。
諸葛亮は自分の死後に後を任せる存在としてまず蔣エンという名前を上げ、その後には誰かと聞かれて費イの名を上げます。そしてそれ以上は何も話しませんでした。
つまり姜維も馬謖も名前を上げられてはいないのです。馬謖に関してはもうこの時点で……とは思いますが、諸葛亮が後事を託した存在として、後継者として誰か名前を上げるとするならやはりこの二人の方がしっくりくると思います。
費禕という面白い(?)存在
さてまずは費禕について触れていきましょう。順番から言えば蔣エンですが、ちょっと費禕から話させて頂きますね。費イという人物に付いて何か言え、と言われるとどうしても「面白い人物」と言ってしまいます。
と言うのも、費イは昼間は凄まじい能力とスピードで仕事をさばいていくにも関わらず、夜になると博打やら酒宴やらをして大遊びをするという、優秀な官僚でありながら「遊び」も嗜む人間でした。その一方で人に対して邪心がなく、もっと疑いを持って人に接するようにしろ、と言われる好人物です。
更には魏延、楊儀という人物たちの最期にも関わってくるという黒さを持っていたりする一面も……この「黒さ」もまた、費禕の面白い一面。かなり魅力あふれる人物であると思うのです。
ただ最期が酔っ払って殺されてしまうという最期なので……どうしても最後で失敗してしまっている感は否めないのが、費イという存在ですね。
対して蒋琬という存在
では対して蒋琬はどんな存在かというと、筆者としては「真面目」であると思います。かなり真面目でマイペースに自分の仕事をこなしていく人。他人の批評を気にせず、冷静な人物であると思います。
これを裏付けるものとして、蒋琬の逸話があります。蔣エンは諸葛亮の後事を託された人物なので、どうしても諸葛亮と比べられます。ある日、楊儀は蔣エンに「諸葛亮殿には全く及ばない能力だ」とそしりました。
しかし蔣エン自身は「確かに私は諸葛亮殿に及ばないな」と言って恨んだり言い返したりもしなかったと言います。
その一方で、楊儀とこのような逸話も残しています。楊儀は蔣エンと議論をしていましたが、その途中で返事に詰まって返せなくなりました。
楊儀を快く思わない人物がそれを指摘しましたが、蔣エンは「顔の造りが違うように考え方も人によって異なる」と楊儀を擁護したと言います。これが十人十色の語源となりましたが、これからも蔣エンは優秀な人物でありながら自分の評は気にせず、かといって他人を否定しない人物だと思います。
ただその後、蒋琬は病を重くして亡くなってしまうのです。この死は間違いなく、蜀としても惜しまれるものだったと思います。まあ閑職に回されると酒を飲んで酔っ払って寝てしまう一面もありますけどね!
姜維の託された「もの」とは?
では最後に、少し姜維にも触れたいと思います。姜維が諸葛亮の後継者でなかったとしたら、弟子でなかったとしたら、彼は何だったのでしょうか。
おそらく彼には、北伐しかなかったのではないでしょうか。魏から降ってきた武将。
元から蜀の将ではない、しかもつい最近降ってきた将。評価してくれた人は既になく、自分がやるべきことは一体何なのか。
自分にやれることは何なのか考えて、見出したのが北伐だったのではないかと、筆者は考えています。それが諸葛亮の望んだものではなかったとしても、姜維はそこにしか自分の残されたものを感じていなかったとしたら……少し、悲しい気がしますね。
三国志ライター センの独り言
少し姜維に対して評価が辛口になってしまいましたが、それもまた三国志の「苦み」として見て頂ければ幸いです。
演義の影響で姜維の陰に隠れてしまいがちな蔣エン、費イですが両名共に面白い人物でもあります。諸葛亮の明確な弟子ではないにしろ、彼らが諸葛亮から何を託されたと感じていたのか……それを考察して、より三国志という世界を皆さんも深めてみて下さいね。
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