さて、今回は曹植とその死因を見ていきたいと思います。曹植と言うとどうにも三国志演義での実兄・曹丕からの嫌がらせの数々と才覚で乗り切るシーンが頭から離れませんね。その曹植の死因ともなれば、あの陰険お兄ちゃんによるブラックなあれこれを想像してしまいますが……実は、曹植のみならず曹丕の死因にも関係があったりなかったり?
この「あったりなかったり」がどう関係してくるのか、曹植の生涯から順番に見ていくとしましょう。
この記事の目次
装飾の生涯、その出生と家族背景
曹植はご存知、曹操と卞氏の息子です。同母兄には曹丕、曹彰がおり、同母弟には曹熊がおりましたが、こちらの弟は早世してしまいました。その名から「草食(曹植)系男子」……を想像してしまうかもしれませんが、兄弟たちと同じく武闘派な面もあり、14歳から従軍し、数々の戦場に赴いています。
意外かもしれませんが、本人も「男子たるもの戦で武功を挙げてこそ!」というタイプだったようです。ですが曹植と言うとなによりも有名なのは中国を代表する文学者。「詩聖」の評価を受けるほどの文才の達者者であったということでしょう。
曹植の代表作、洛神賦とは?
ここで有名な曹植の賦の一つである、洛神賦についてお話ししましょう。賦というのはまた説明が難しいのですが、意味としては「人に聞かせること」を意味するため、ここでは詩の朗読、転じて朗読するための詩、という解釈で参りましょうか。
洛神賦ですが、これは内容を要約すると洛水という川の女神への思いを歌った詩です。この川の女神ですが、実は兄嫁である甄夫人への思いを歌ったともされていますが、そこに込められた本心は曹植のみぞ知る、と言った所でしょうか。
その他の代表作としては吁嗟篇などもありますが、個人的には「贈丁儀」というその題名の如く丁儀に宛てた詩が筆者は好きですねぇ。(兄と違って)丁儀と曹植は仲が良かったんだなぁ……とじんわりとほろ苦くなる詩ですので、ぜひ見てみて下さいね。
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曹植の後世へ与えた影響。有名な「七歩の才」とは
そんな曹植は他にも数多くの詩を詠んでおり、正に詩聖の呼び名に相応しい才覚を多くの者たちに詩として残しました。しかしそんな中で特に有名となったのは、やはり「七歩の才」の語源になったとも言われる「七歩詩」ではないでしょうか。
この「七歩の才」とは故事成語であり、極めて優れた才能、特に詩や文章を作る才覚のことを意味します。もちろん曹植の詩才のことから生まれた故事成語ですが、どんな場面で生まれたのかちょっと解説しましょう。
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曹操の後継者争い 曹丕と曹植による諍いから生まれた故事成語
さて三国志演義では曹操の後継者争いとして曹丕と曹植のバトルロイヤル……とまではいきませんが、曹操の死後、正式に後継者となった曹丕がその詩才で父親に可愛がられていた曹植を妬み、嫌がらせをしてきます。曹丕は「七歩歩く内に詩を作れ」と命じますが、ここで重要なのは七歩、というのは「即興で」という意味と置き換えると分かりやすいかもしれませんね。
しかし曹植は見事に詩を詠みあげます……が、それでもあきらめない曹丕は、次はお題を出したらすぐに詩を作れ、と命じます。ここで「兄弟」というテーマで、曹植はこれまた有名な故事成語「豆を煮るに萁をたく」の元となった歌を詠みました。この詩には「本是同根生相煎何太急」という文が出てきますが、これは同じ根から豆と豆殻なのに、豆を煮るために豆殻を焚く、兄弟なのにどうしてそんなに相手を苦しめようとするのか……という意味です。曹丕はこの詩に自身の行いを恥じたと言います。
この逸話は三国志演義で有名ですが、元となったのは世説新語の話です。このような話は正史三国志には見られませんが、如何に曹植の詩才が優れていたかが伝わる逸話の一つとも言えるでしょう。
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曹植の死因とそこに至るまでの経緯
正史三国志においては、曹丕と曹植本人たちが激しく後継者争いをしたかどうかは記されていません。ただ曹操が後継者で悩んでいたのは事実であり、長子である曹丕は中々太子とされず、そのことから曹丕派、曹植派が対立していたというのは有り得ない話ではありません。主の進退は自身の進退に関わってきますからね。
しかし、217年に正式に曹丕が太子に指名され、更に220年に曹操が没すると、曹植派の一派は誅殺されていき、曹植の立場も危ういものとなっていきました。
結局その後、曹植は各地を転々とさせられ、起用もされず、232年に病を発して41歳の生涯を閉じます。若かりし頃から酒好きであり、飲酒での不祥事を起こした一件もあることを加味すると、鬱屈とした日々から酒浸りになって体を壊し……といった死因が真っ先に考えられるでしょうか。
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ちょっと待って!!曹植と兄弟を並べてみると……
と、考えるのは少々スピーディ。確かに若かりし頃から飲酒が過ぎていると百薬の長も毒となって体を蝕むこともありましょう。しかし、ここで曹植とその兄弟、曹丕と曹彰を思い出して頂きたい。
まず曹丕ですが、これより以前の226年に病に倒れ、亡くなっています。この曹丕の享年は40歳。更に先んじて曹彰は223年に、30代前半……これは生年があやふやな為享年がはっきりしませんが、やはり早逝しています。
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曹兄弟の早逝率の高さ……
因みに曹丕の子の曹叡も享年35歳、もしくは33歳という早さで亡くなっていますね。この血筋、亡くなるのが早くないですか?
確かに曹操の血筋ともなると常人とは比べ物にならないストレスフルな環境下で生きていかなければならなかったのかもしれませんが、それにしても揃いも揃って短命ではないでしょうか。
曹操自身が66歳没ということを考えると、もしかしたら母親である卞氏の家系が短命だった可能性もあり得ます。……と、ここで卞氏の家系の享年比較や他の母親の曹操の子の享年比較ができればなお良かったのですが、彼らについては享年が不明ばかりで、比較対象にならず……これは口惜しい所。
ただ今回は個人的に、曹植を含む同母兄弟の短命さを鑑みて、敢えて病気や不摂生だけでなく、そもそもの遺伝による短命さを死因として挙げてみました。これについては今後も卞氏の家系や、曹操の他の子の生没年がはっきりしないかな~……と、少しソワソワしながら追って行ってみたい所ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
まあここで言うのはなんですが、卞氏自身はそこそこ長生きしているという所がちょっと考える一要因にはならない、という所がありますが。どうにも三国志演義での影響の強さからか「曹彰も曹植も早逝している!きっと曹丕がなんかやったんだ!暗殺だ!」と思ってしまいがちですが、既に皇帝になってしまった曹丕が今更なんかするかな……という疑問点も強いのですよね。
それを踏まえて考えると「もしかして兄弟揃って短命では?」というのは割としっくりくる一説ではないかとも思います。
武将の死因に関しては、はっきりしている以外でも「敢えて」を考えていくのがまた楽しいですね。これもまた歴史の醍醐味。どぼーん。
参考:魏書陳思王曹植伝 世説新語
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