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明智光秀は大山崎油座を守ったせいで羽柴秀吉に敗北した【どうする家康予備知識】

2022年12月13日


 

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

 

明智光秀没落のハイライトと言えば、山崎の戦いで羽柴秀吉の4万の軍勢に大敗した場面でしょう。僅か1日で天下人の座を失った光秀ですが、逆に言うとどうして光秀軍は僅か1日しか持たなかったのでしょうか?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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繁栄していた大山崎を避け平地に布陣した光秀

大山崎

 

 

数において劣勢の光秀は秀吉と雌雄を決するポイントを京都の大山崎としました。大山崎は天王山と男山に挟まれ、一番狭い場所で幅が300mという隘路で、秀吉の4万の大軍が展開する事は不可能だったのです。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

 

ところが、光秀は有利な地形である大山崎を捨て、その先の勝龍寺城がある平野に軍を展開、結局兵力の差は覆らず、光秀は1日で敗走したのです。では、どうして光秀はわざわざ有利なポイントを捨ててしまったのでしょうか?

 

 

経済的に繁栄していた大山崎を失いたくなかった

にぎわう市(楽市・楽座)

 

 

光秀が狭い大山崎を回避して陣を敷いた理由。それは戦国時代、ここに大山崎油座という荏胡麻油を扱う座が存在したからです。大山崎油座は荏胡麻油の流通と販売の利権を握り、戦国時代でも有数の財力を持つ座で、彼らは合戦により財産を失う事を恐れ、光秀にも秀吉側の織田信孝にも金銭を納めて制札を受けていました。制札とは足軽の乱暴狼藉を禁止する戦国大名のお墨付きです。

 

 

後々の事を考えた光秀は制札を破らなかった

明智光秀

 

 

しかし、制札があっても戦国大名がそれを守るかどうかは分かりません。光秀だって兵力差の不利を考えれば、自軍の足軽を大山崎の商家に潜伏させてゲリラ戦に移行した方が戦いを長引かせる事ができ、勝機を掴めたかも知れません。

 

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

 

それでも、光秀が大山崎を拠点にしなかったのは、合戦で大山崎が灰になると経済への影響が大きかったからだと言われています。光秀は天下を諦めなかったからこそ、ヤケクソで市街戦を演じようとはしなかったのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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