織田信長といえば、楽市・楽座、鉄砲の集中運用や関所の廃止など、独創的な事業を次々に起こし創造的破壊者と呼ばれる事が多いですね。しかし、近年の研究では信長の事業のほとんどに先駆者がいて、信長はそれらを研究し、より上手に模倣したから成功したという説も出てきているのです。
楽市・楽座は信長以前からあった
織田信長と言えば、最初に挙げられるのが自由な商売を認めた楽市・楽座ですが、その原型は信長以前から、南近江の六角氏や駿河の今川氏が実施している事が分っています。また信長が併合した美濃も斎藤道三の時代から、加納と呼ばれる場所に楽市・楽座があり、信長はそれを引き継ぐ形で管理した事が明らかです。また、信長はどこでも楽市・楽座を敷いたのではなく座を置いた方が都合がよい場所では座を存続させ、新しく結成させてもいました。
鉄砲の保有率は武田と違いはなかった
織田信長と言えば、大量の鉄砲を保有していたイメージですが、例えば長篠の戦いにおいて、武田軍と織田徳川連合軍で鉄砲の保有率に大きな差は無かったようです。では、どうして武田軍に比較して織田・徳川の方が鉄砲が多い印象があるのかと言うと、信長は火薬の原料である硝石や鉄砲の玉である鉛の流通を握っていて、武田軍と比較して大量の玉薬を用意できたからだとされています。
武田軍が火薬を節約して撃たないといけないのに対し、織田・徳川軍は潤沢に火薬を使えたから同数の鉄砲で勝てたわけです。
信長は優秀な模倣者だった
織田信長は、あまり独創的な事はしてなく、先人が編み出した新しいシステムに改良を加えて、より効率的なものにする事に才能を見せた人でした。一から作るのは大変ですが、すでに発明された仕組みを改良するのであれば、そこまで大変ではありません。信長は優秀な模倣者だったからこそ、戦国時代で急速に勢力を伸ばせたのです。
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