戦国時代は後半になればなるほど、武将ばかりではなく軍師に相当する人々が活躍しました。戦国時代も後期になると戦国大名が淘汰されてゆき、より力の強い大名同士が大軍を擁して数ヶ月も戦うようなケースが出てきて、長期的な戦術、戦略が重要視されるようになったからです。そこで今回は戦国の最強軍師ベスト3を紹介しましょう。
3位 竹中重治
竹中半兵衛という通称が有名です。黒田官兵衛と共に羽柴秀吉に仕え「両兵衛」と呼ばれました。半兵衛は美濃の斎藤道三の家臣の子として誕生しますが、色白で病弱な為に豆腐と呼ばれ蔑まれていました。
本来なら、そういう家臣を諫めるのが君主ですが、当時の戦国大名、斎藤龍興は一緒になって半兵衛をバカにします。それ以前に龍興は、美濃の政治を疎かにしていたので、キレた半兵衛は36人の仲間と共に稲葉山城を奪取。同時に龍興を手取りにしました。この時、半兵衛が龍興に「反省したか?」と問うと、龍興はすぐに「反省した」と答えたので半兵衛は「すぐに反省したという人間に、本当に反省した者はいない」と諭し、城を半年間奪い、その後に返還したそうです。
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2位 山本勘助
山本勘助は、生涯の大半が謎に包まれた武田信玄に仕える軍師、用兵家です。三河国に誕生した後で、諸国を放浪し、各地の実力者に仕えた後、武田信玄の知遇を得て後は、川中島で戦死するまで信玄に仕えました。
山本勘助は用兵に長けていて、軍隊を二手にわけ、一方が敵を挑発して気を逸らしている間に、もう片方が敵を打つキツツキ戦法を考案したとされます。また勘助は馬を騎兵として使うのではなく、戦場に到着するまでは移動手段で使用し、そこで馬を捨てて徒歩で戦場に突入する西洋の竜騎兵のような手法を考案したとも言われています。
武田信玄自体が関東のローカル大名なので、地味なイメージですが戦術のみならず、戦い方の革新をするなどオールラウンドで活躍する軍師です。
1位 黒田孝高
通称の黒田官兵衛が有名です。羽柴秀吉の知恵袋であり、竹中半兵衛と並び「両兵衛」と呼ばれた軍師です。しかも若くして死んだ半兵衛に比較して長命で、秀吉の天下統一に尽力し、鳥取城では兵糧攻め、備中高松城では水攻めと地形と戦況に合わせ縦横無尽な策謀を駆使しました。官兵衛の出身である播磨は、赤松氏、宇喜多氏、浦上氏と権力が三転する複雑な政治状況があり、官兵衛の変転極まりない軍略はその土地の影響を受けていると言えるでしょう。
しかし、その神算鬼謀は主君である豊臣秀吉にさえ恐れられ、領地も12万石止まりと功績に比較して不遇でした。また、多くの軍師が主君を補佐するだけで天下を獲る野心を持たなかったのに対し、官兵衛は関ケ原のドサクサに紛れて領土拡大を図り、戦いが長引けば徳川に弓を引いて天下を狙ったのではないかという噂もあります。
まとめ
世に軍師は数あれど、やはり総合力では黒田官兵衛が1位なんじゃないかと思います。読者の皆さんは、どう思いますか?
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