人間は面倒くさいもので、叱るだけでも褒めるだけでもいけません。NHK大河ドラマ「どうする家康」において、酒井忠次と石川数正コンビが、この叱ると褒めるのバランスを絶妙に取って家康を導いていました。
父母と別れた家康の父母替わり
徳川家康は3歳で母と生き別れ、7歳で父と死に別れています。その為、家康を叱ったり、褒めたりする役割は家臣が担う事になりました。その中で父の代わりに家康を厳しく躾けたのが石川数正(松重豊)で、母代わりに家康を庇って褒めたのが酒井忠次(大森南朋)でした。
どこまでも厳しい数正と陽気な忠次
石川数正と酒井忠次は、史実でも松平家臣団の筆頭を勤める二大巨頭でした。ドラマでは、どこまでも真面目で厳しい数正に対し、忠次は陽気で気さく、宴会では必殺のかくし芸、海老踊りを披露し、あまり美人ではない妻を自慢するなど家臣全体に慕われている存在です。
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桶狭間で家康が逃げた時の対照的な対応
石川数正と酒井忠次の役割の違いが対照的だったのは、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた事を知って家康が逃げてしまった時です。石川数正は家康が放り出した金陀美具足の兜を発見して「逃げおったか」と憤りを隠さなかったのに対し、酒井忠次は本多忠勝に伴われて戻ってきた家康に「1人になって今後の事を考えておられたのだ」と庇いました。
もし2人が共に家康を逃げたと非難したら、家康は立つ瀬がなかったでしょう。忠次とて、内心では家康が逃げたと勘づいてはいたでしょうが、まだ19歳の家康では逃げたくなるのも無理はないと考えなおしたのだと思います。
2人には厳しい側面も
対照的な役割の酒井忠次と石川数正ですが、一方では主君家康の器量を計っている部分もあります。家康が自分の力不足を嘆き、大樹寺で自害しようとした時には、近くにいながら止めようとはしませんでした。「ここで挫けて腹を切るようなら所詮はそこまでのお人、我らは次の主を探そう」そんな冷徹な目をして家康を見つめているのが印象的でした。
後に命運が別れる2人
徳川家の筆頭家臣となる2名ですが、その後運命が大きく分かれます。石川数正は次第に家康と不和になり、豊臣秀吉に引き抜かれて出奔。一方の酒井忠次は終生家康に仕え、酒井家は徳川幕府の譜代大名として、存続し続けます。その時はドラマでは大分先になるでしょうが、家康と2人の関係がどう変化するのかも注目したいですね。
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