少し前まで、織田信長の革命的改革とされていた兵農分離。しかし、それには異説もあり、そもそも信長は兵農分離を実行していなかったという説もあります。では、年中無休で織田軍の合戦を担ったのは一体誰だったのでしょうか?その正体を明らかにします。
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戦国の傭兵部隊、籠牢人
戦国大名の兵力の供給源は何も農民ばかりではありませんでした。百年以上も戦争が継続した当時は、戦場での略奪で生計を立てている籠牢人(ろうろうにん)と呼ばれる傭兵部隊が存在。お頭を中心に縄張りを保有し、京都の郊外や堺、大和のような自治都市に住んでいました。
籠牢人は傭兵以外にも暴力が必要な所には、お金次第でどこにでも出ていきました。籠牢人とは暴力をビジネスとしていたのです。さて、京都、堺というと織田信長が上洛して拠点にした土地です。はい、これで繋がりますね。兵農分離なんて面倒な事をしなくても、信長の支配地には、お金で暴力を発揮する存在がちゃんといたのです。
名前が残る籠牢人の首領
1559年に編纂された後北条氏の軍役張には、籠牢人の頭らしき人物の名前が残っています。その人物は大藤式部丞という名前で19人の足軽を指揮していました。織田軍には、この大藤式部丞のような籠牢人の頭が大勢いて織田軍の一部として、天下布武の覇業のために、中国、四国、北陸、関東でいつ果てるとも知れない合戦を戦い抜いていたのでしょうね。
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