織田信長の兵農分離の正体とは?[どうする家康]

2023年1月29日


部下を競争させる織田信長

 

 

少し前まで、織田信長の革命的改革とされていた兵農分離。しかし、それには異説もあり、そもそも信長は兵農分離を実行していなかったという説もあります。では、年中無休で織田軍の合戦を担ったのは一体誰だったのでしょうか?その正体を明らかにします。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国の傭兵部隊、籠牢人

悪党(鎌倉)

 

戦国大名の兵力の供給源は何も農民ばかりではありませんでした。百年以上も戦争が継続した当時は、戦場での略奪で生計を立てている籠牢人(ろうろうにん)と呼ばれる傭兵部隊が存在。お頭を中心に縄張りを保有し、京都の郊外や、大和のような自治都市に住んでいました。

資金が豊富な織田信長

 

籠牢人は傭兵以外にも暴力が必要な所には、お金次第でどこにでも出ていきました。籠牢人とは暴力をビジネスとしていたのです。さて、京都、堺というと織田信長が上洛して拠点にした土地です。はい、これで繋がりますね。兵農分離なんて面倒な事をしなくても、信長の支配地には、お金で暴力を発揮する存在がちゃんといたのです。

 

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名前が残る籠牢人の首領

名古屋城

 

1559年に編纂された後北条氏の軍役張には、籠牢人の頭らしき人物の名前が残っています。その人物は大藤式部丞という名前で19人の足軽を指揮していました。織田軍には、この大藤式部丞のような籠牢人の頭が大勢いて織田軍の一部として、天下布武の覇業のために、中国、四国、北陸、関東でいつ果てるとも知れない合戦を戦い抜いていたのでしょうね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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